ep4-5.花の生命
鬱蒼と木々が生い茂る場所に、一枚の花びらが落ちた。
水面のように地面が揺れ、ゆらりと小さな薄紫の光が現れる。そしてその光が膨らみ、一輪の花の蕾を形作った。
ゆっくりと花びらたちが開いたその中央に、1人の魔女が立っていた。
開き切った花びらは、光の流砂となって消えていった。
リナリアが周りを見渡す。
そこは、木々に囲まれた場所だった。
(フィンにつけたシルシは、ここまで)
リナリアが目を閉じる。感覚を研ぎ澄ましても、そのシルシを感じることはできなかった。
よからぬことが起きていると、容易に想像がついた。
その時、草むらからがさりと音が鳴った。
リナリアが視線を向けたその先、草むらの中から現れたのは、幼い狼だった。
幼い狼が、鼻を鳴らしながらリナリアに近づいてきた。
「どうしたの?」
幼い狼は、おぼつかない足取りで森の中を進んで行く。途中で何度も振り返りながら、リナリアの様子を窺っていた。
リナリアが幼い狼について行くと、土砂が崩れ、むき出しになった斜面に出た。
土の間から、精巧に作られた石の柱が露出していた。
「神殿かしら。埋もれてしまったのね」
幼い狼が斜面に沿って歩いていくと、一か所にぽっかりと穴が空いていた。
土砂に飲まれた神殿の入り口が、その闇の口を広げていた。
幼い狼がその中に消えていく。
リナリアが闇の中に足を踏み入れようとして、反射的に足を止めた。
闇の中から、心配そうに狼が鳴いていた。
「ええ、大丈夫。ちゃんと進めるわ」
リナリアが神殿の中に入る。
そこは獣の魔女の領域だった。
どろりとした重たい空気が、リナリアを包む。
魔女は自然と繋がっている。
他人の魔女の領域の中、リナリアと繋がっていたすべての線が切れ、離れていく。
まるで泥の中に閉じ込められたような。
息苦しささえ感じるその場所にリナリアは足を踏み出した。
すべては、たった1人の人間のために。
⭐︎
視界が暗い。水気のある黒い塊に飲み込まれたヴォルフは、全身を包む不快な感触をただひたすらに耐えていた。
吐き気を催すような生臭い匂い。
鉄の匂いが混じるそれのせいで、何度も意識を失いそうになっていた。
突然脈打つように泥が動き出し、ヴォルフは吐き出された。
ヴォルフは水から上がったかのように、咽せ込みながら新鮮な空気を肺にめいっぱい吸い込んだ。
「意思を保ったままなんて、恐ろしいわ」
ヴォルフが顔を上げると、そこには獣の魔女が立っていた。
そこは冷たい空気で満たされた場所だった。
石柱が規則的に並び、古い神殿の広間に見えた。
天井が崩れ、空には重たい雲が広がっている。
ヴォルフの手にあった剣は、いつの間にかどこかへ消えていた。
(短剣はある。手がないわけでは、ないか)
冷静に頭を整理しながら、その場所にいるはずの人間の姿が見当たらないことに気がついた。
「俺の騎士はどこだ」
ヴォルフの言葉に獣の魔女の口角がにやりと上がった。
「この期に及んで他人の心配?魔女殺しの英雄は、さすが余裕ということ?」
獣の魔女が歪に口角を上げた。
「お前の首は落としたはずだ。なぜ生きている」
「なぜって。私は1人じゃないもの。ほら、おいで」
魔女の声に反応するように、神殿の中で複数の足音が響いた。
ヴォルフが視線を動かすと、駆け寄ってきた灰色の狼たちが獣の魔女へと飛び込んだ。
すると狼たちの身体が、まるで粘土のように崩れ、魔女に取り込まれていく。
その悍ましい光景に、ヴォルフは目を見開いた。
「お前、なんてことを」
「この子たちは、私なの。私が私の身体を好きに使ってるだけだわ」
神殿の壁沿いには、金の目を光らせた狼たちがいた。
生きている狼たち。
望んで魔女に取り込まれているなど、ヴォルフには信じがたいことだった。
ヴォルフが立ち上がろうとすると、粘り気のある黒い泥がそれを阻んだ。
ヴォルフにまとわりつく泥。それが蠢き出し、泥が裂け、数多の金の目が現れた。
その事実に気がついたヴォルフは、込み上がる吐き気をすんでのところで堪えた。
(これはすべて、あの狼たちか)
鉄の匂いと、ぬめり。
その正体は、狼たちの臓腑で作られていたのだ。
「何よ、その顔。私からすれば、お前たちの方が理解不能だわ。教えてよ。どうやってあの魔女を従えたの?どんな弱みを握ったわけ?」
「従えてなどいない。俺たちは、協力しあっているだけだ」
「……は?ふ、ふふ、あははははは!」
魔女は顔を顰めたあと、腹を抱えて笑っていた。
「魔女が、協力?何を馬鹿なことを言ってるの。魔女がお前たちに手を貸す意味なんてないじゃない」
「お前に理解できるとは思っていない。お前は、生命を何とも思っていないだろう」
「は。人間風情がえらそう、に……」
魔女の言葉が途切れる。弾かれたように魔女が視線を向けた先、広場に通じる唯一の通路から、足音が聞こえた。
「お前も、あいつも、理解できないわ。ここは、私の領域よ」
重たい雲の薄明かりの下、光を浴びて輝く銀の髪を靡かせた魔女が現れた。
⭐︎
リナリアは、暗闇の中をひたすら歩いていた。
領域の深淵に近づけば近づくほど、身体が重くなる。
まるで水の中を歩いているような感覚だった。
リナリアが魔女として生まれてから、それは初めての感覚だった。
息苦しくて、気持ちが悪くて。それでも前に進まねばならないと、一歩ずつ進んでいく。
暗闇の先に、光が見えた。それはだんだん大きくなって、出口なのだと分かった。
前を歩いていた幼い狼が立ち止まる。
その先には進めないのだと、悲しそうな声を出した。
「ここまででいいわ。ありがとう」
リナリアは幼い狼を一瞥して、また前に進む。
出口を抜けると、神殿の広間に出た。
薄暗く、じっとりとした場所にリナリアが探していた姿があった。
「ヴォルフ」
呼びかけると、その人間は目を見開いていた。ヴォルフは、生き物の残骸に捕らえられ、動けないでいた。
その横に立った魔女が、呆れた声を出した。
「お前ねぇ。他人の領域に踏み込むなんて。正気じゃないよ」
「ヴォルフを離して」
「は。立ってるのもやっとなくせに、よくそんなことが言えるね」
リナリアが周囲を見渡すと、周囲を取り囲むように立つ若い狼たちがこちらの様子を窺っていた。
(生きている。ヴォルフにシルシをつけたのは……)
微かに自分に残った感覚を辿る。
その先には、獣の魔女がいた。
(彼女の、中)
リナリアの様子に、獣の魔女は不愉快そうに顔を歪めた。
「無視するなんてひどい。私たちは同じ魔女でしょ。手を取り合って、この穢らわしい人間を殺しましょう」
リナリアは、静かに首を横に振った。
「私は、人間を殺さない」
「魔女なのに?こいつらの炎は私たちを焼く。殺される前に殺さなきゃ。私たちが死ぬのよ?」
「それでも、殺したくない」
獣の魔女は、がくりと肩を落としてため息をついた。
「お前、変よ。私たちは自然の頂点にいるのに、人間ごときに入れ込んで。本能が死んでるのよ。お前はもう、魔女として終わっているわ」
「あなたと私は違う。考え方が違った、それだけよ」
「分からず屋ね。なら仕方ないわ。人の恐ろしさを、穢らわしさを、思い出させてあげる」
リナリアは薄く笑った。
人の恐ろしさも、穢らわしさも。
生まれた時から感じたことなどないのだ。思い出そうにも、その記憶がない。
リナリアが静かに告げた。
「私は、未来で“土の魔女“と呼ばれていたそうよ」
獣の魔女が怪訝な顔を浮かべた。
「何故そう呼ばれたのか、ずっと考えていたの。ようやく分かったわ。きっと私は、使える力が足りなかったのね」
自然との繋がりを断たれたリナリアが、その力を使う時。
それは、リナリアの中にある命を使うほかないのだ。
彼女が胸に手を押し当てると、菫色の柔らかな光が広がった。そしてその手の中には、いくつもの小さな種子が転がった。
「私は、花が好き。陽の光を浴びて、土に根付いて、そして咲く。私の助けなんかなくても、すくすくと育っていく」
リナリアが種子を床に落とす。それは、割れた石床の隙間に転がり落ちていった。
「人と、同じね」
リナリアの言葉の後を追うように、石床が激しく捲れ上がった。
その下から現れたのは、大きな土人形だった。
びっしりと伸びた植物の根が、土人形を支えていた。
獣の魔女が呆気にとられる。しかしすぐにその口角を歪めた。
「はははは!おもしろいわ!お前がその気なら、付き合ってあげる!」
獣の魔女が土人形を指差した。
「行け!お前たち、負けるなよ!」
狼たちが、血走った目で土人形に向かって駆け出した。
リナリアは、獣たちを見据えていた。
魔女の血肉を食らったその末裔たち。
彼らを殺さなくてはならない、ただその思いで。




