ep4-3.どこかで起きた、誰かの終わり
穏やかな日差しが差し込む屋敷の中、リナリアはダイニングテーブルの上に瑞々しい切り花を広げていた。一本ずつ手に取っては、ハサミを入れて、花首を落とす。足元には、切り落とされた花で溢れるカゴが、いくつも並んでいた。
ノラがリナリアに近寄り、声をかけた。
「奥様、お昼はどうされますか?」
――パチン、パチン
小気味良い音が部屋に響いていた。
「お茶だけいただくわ。ありがとう」
「はい、分かりました」
ノラがキッチンに歩いていく。
――パチン、パチン
花の甘い香りが屋敷に満ちている。
リナリアは、ふいにハサミを動かす手を止めた。
自分が“何者かに呼ばれている“ことに気がついたから。
小さな溜息をひとつ。そして、ゆっくりとその瞼を閉じた。
――次に瞼を開いた時、リナリアは一面の花畑の中に立っていた。
甘い香りで満たされた場所。
リナリアが振り返ると、自分を呼びつけた存在が、そこにいた。
1匹の、くすんだ灰色の狼。
その身体には、黒い砂塵がゆらゆらとまとわりついていた。
「あなたは……」
その狼は、魔女ではない。
ただしそれに限りなく近い、若い狼だった。
「こんなところまで、どうしたの?」
狼が迷いなくリナリアに歩み寄り、その横に立つ。その視線は、リナリアの背後にある“何か“を見ていた。
リナリアは目を細め、そして観念したように深いため息をついた。
「本当は嫌。でも、特別よ」
リナリアが振り返ると、強い風が吹き上げた。
足元に広がった花たちが波打ち、そしてその花びらが津波となって、リナリアたちの視界を覆う。
波が去ったあと、そこは殺風景な岩肌となっていた。
狼と魔女が見つめる先、そこには黒い砂塵が意志を持って集まり、遠い記憶の形を表していた。
黒い砂塵は、最初に狼をかたどった。それは、巨躯を持つ狼の群れだった。
力なく横たわるもの、毛を逆立てるもの。
足をもつれさせながら、なんとか立ち上がろうとするもの。
それらを背に庇うように、1人の女が両手を広げて立ち塞がった。
リナリアは、隣に立つ狼へ視線を移した。
その狼は、感情の色を映すことなく、ただその光景を見ていた。
リナリアが、意識を目の前に戻した時、両手を広げる女の首筋に、風の刃が走った。
ふわりと頭が体を離れ、その頭を形作っていた黒い砂塵が霧散した。
どこかで起きた、誰かの死。
「これはあなたの記憶?」
リナリアが隣の狼に問いかけるが、その答えはない。
首の無くなった女の体が仰向けに倒れると、女の後ろにいた狼たちが、その巨躯で女を囲み、そしてその屍肉を貪り始めた。
リナリアが瞼を震わせた。
「愚かなことを……」
リナリアの言葉が、静寂に溶けて消えていく。
「意味のない行為だわ」
そしてまた強い風が吹く。
巨躯の狼たちが霧散し、また次の形へと変わる。
それは、若い狼の群れだった。
小さな子狼たちが、群れの間で無邪気に走り回っていた。
どこにでもある、幸せの形。
ふと狼たちが空を見上げる。
迫り来る異変に気が付いた親たちは、空を威嚇した。
子供たちは、怯えてその陰に隠れている。
そして空から、女が羽のように緩やかに降り立った。
群れの中に立つその女の手の中には、煌々と燃える黄金の炎があった。
黒い砂塵がかたどる過去の記憶中で、炎だけが異質に色づき、輝いていた。
リナリアは、その光景に眉を顰めた。
「あの炎は……」
黄金の炎がゆらりと女の手から離れていく。
そして、子供を守る親狼の中に溶けていった。
その刹那、親狼の体が震えた。
親狼の体から、人の腕が、足が、狼の体を突き抜けるように現れた。
さらに他の若い狼たちの体まで、その変異した親狼の元に引き寄せられていく。
狼たちの体が、粘土細工のように合わさって。
そしてその肉塊は、1人の女の形に姿を変えた。
「こんなこと……」
身を切るほどの強い風が吹き付けた。リナリアが顔をしかめる。
風がやんだ後、そこは何もない、ただの殺風景な岩肌へと戻っていた。
「こんなこと、許されないわ」
リナリアは、まっすぐと狼の群れがあった場所を見つめていた。
「もう私にはどうすることもできない。なぜ今さらこんなことを?」
魔女には、狼の意思が聞こえていた。
「無理よ。魔女に魔女は殺せない。これを私に伝えたって、何の意味もないことよ」
狼が鼻を鳴らし、それに答えた。
「ああ……」
リナリアは静かに息を漏らし、自らの手のひらを眺めた。
ヴォルフの頬を撫でた時のことを思い出し、困惑の滲む表情で目を閉じる。
「そうね。それは、私が悪かったわ」
狼が伝えたかった相手はリナリアではなかった。
しかしそれが届く前、リナリアがその繋がりを断ち切ってしまったのだ。
「でも、嫌だったの。あの真白の、無垢な炎の中に、違う色が宿ることが。それがたとえ、自分の色だったとしても」
リナリアがしゃがみ込み、狼と視線を合わせた。
その金色の瞳は、ただまっすぐに魔女を見つめていた。
「魔女を殺せるのは、人だけ。すべてはあの人次第」
狼が頭を伏せる。
リナリアは、ゆっくりと目を閉じる。
狭間の世界から、現実の世界へ向かうため。
――次に瞼を開いた時、そこは甘い香りの漂う屋敷の中だった。
ノラがワゴンを揺らしながらリナリアに近づいてきた。いつも通りの、穏やかで平和な空間。
「奥様、お茶の準備ができました」
ノラが声をかけるやいなや、リナリアは立ち上がった。
「奥様?」
「ちょっと、出かけてくるわ」
リナリアの突然の言葉に、ノラは目をぱちくりとさせたのだった。




