ep3-3.甘い香り
森が燃えている。
――また、あの夢だ
ノラは横たわる母の横で、へたり込んでいた。
何もできない、何も変わらない。同じ地獄の繰り返し。この苦しみが消えることはないのだ。
――魔女が来る
ノラが視線を上げると、そこには見知った女がいた。禍々しい赤色の髪に、黄金の瞳。その目を見ると、恐怖で体が震えてしまう。
魔女の燃える手が近づいてきた。
――怖い、怖い
目を閉じることさえも許されない。その瞳から、恐怖に染まった涙がどろどろと溢れていく。
――助けて、誰か。
魔女の手が、指が、ノラの顔に届く前。
不意に横から伸ばされた手が、その禍々しく燃え盛る腕を掴んだ。
ノラがハッとして視線を移すと、そこには銀の髪を靡かせた女がいた。
「私の領域で、これ以上のことは許さないわ」
凛とした声が響く。
女が掴んだ先から、村を焼いた忌まわしい魔女の身体が塵となって霧散していく。
轟々と燃える炎の音や、悲痛な叫び声は、いつの間にか消えていた。
ノラは女から目を逸らすことができなかった。
女の菫色の瞳が、穏やかな眼差しでノラを見下ろしていた。
そして、その白く柔らかな手が差し出される。
――この手を掴んでもいいの?
ノラは躊躇いながら、ゆっくりとその手にふれた。
その瞬間、2人の足元から緩やかな風が舞い上がり、色とりどりの花々が咲き広がっていった。
炎によって赤く染まっていた空は、春のように澄んだ青空へと変わる。甘い花の香りが、ノラの心を優しく包んだ。
「もう大丈夫よ」
ノラの瞳に恐怖はない。目の前の魔女が、この悪夢に終止符を打ったのだ。
⭐︎
ぱちりとノラが目を開くと、見慣れぬ天井があった。
体を包んでいるのは、とろけるような肌触りのシーツだった。
夢の中で感じた甘い香りが漂い、ノラは、まだ夢の中なのかと錯覚した。手を包む温もりが心地よく、それを握り返したところで、ふと違和感に気付いた。
――誰かの手を握ってる?
気がついた瞬間、そのまま声にならない悲鳴と共に飛び起きた。
リナリアがノラの隣で横になり、ノラの手を握っていたからだ。
「あ、え……。えっ」
慌てて手を引っ込める。手の温もりが、まだ残っていた。
リナリアがゆっくりと起き上がり、ノラに小さく微笑みかけた。
「よく寝れた?」
「あ……。は、い」
ノラがあたりを見回すと、そこは寝具と作業用の机、そしてクローゼットだけの簡素な部屋だった。
「あの、ここは?」
「私の部屋よ」
ノラはまた驚いて口を覆った。
さらにノラに追い打ちをかけたのは、リナリアに近づくメイドだった。幼い子供かと思えば、そのメイドには顔がなかった。
メイド服からのぞく球体関節が人形であることを示していた。
人形が滑らかな動きでノラに布の塊を手渡した。
「あなた夜着でしょう。あいにく私の服ではあなたには大きいと思うから、これを羽織って」
それは上質な生地で作られたショールだった。恐る恐るノラがそれを肩にかける。
「おいで」
リナリアに誘われ、ノラがその後ろを歩き出す。部屋を出ると、球体関節の人形がせっせと窓を拭き、また別の人形が床を磨いていた。
ノラはその非現実的な光景をぼんやりと眺める。
前を歩くリナリアの銀の髪が光を浴びて、キラキラと輝いていた。
⭐︎
リナリアとノラが階段を降りると、食欲を刺激する香りが漂ってきた。ソファに腰掛けていたヴォルフが、2人に気付いて声をかけた。
「起きたか。ノラ、調子はどうだい」
あまりに気さくな貴族の問いかけに、ノラは静かに頷いた。
そのままヴォルフがソファから立った。
「食事の用意ができているよ。座って待っていてくれ」
そう言って、ヴォルフがキッチンに向かう。リナリアに促されダイニングに腰掛けたノラだったが、ヴォルフがキッチンの鍋から皿によそう姿を見て慌てて立ち上がった。
「旦那様、私が…」
しかし立ちあがろうとした傍らに球体関節の人形が立っていて、ノラの肩にふれた。
まるで座るように促すように。
「病み上がりみたいなものだろう。座っておけ」
キッチンからヴォルフが声をかけた。向かいに座ったリナリアに視線を向ければ、彼女は優しく微笑んでノラを見ていた。
そもそも貴族が台所に立つということも聞いたことがない。使用人が貴族に家事をさせるなんて、許されることではないだろう。
ノラはそう頭では分かっていたものの、どうすればいいのかわからず困惑した顔で立ちすくんでいた。
リナリアがノラに声をかけた。
「いいのよ。これが働くから」
そう言ってリナリアが視線を向けたのは、ノラの横に立っていた球体関節の人形だった。
人形は、そのままキッチンへ向かっていく。
ノラはその人形を眺めながら、力なく椅子に座り直した。
「戻りましたー」
覇気のない声と共に玄関が開く。視線を向ければ、フィンがカゴを抱えて屋敷の中に入ってきた。
「奥様、言われたものとってきました」
「ありがとう」
「おい、フィン。これ運べ」
「あーいい匂いっす」
屋敷の中で、変わるがわる声がした。
リナリアが受け取ったカゴには、瑞々しい林檎が入っていた。リナリアは、人形が持ってきたナイフで器用に林檎の皮を剥いていく。そしてヴォルフとフィンが、白パンに温かなスープ、そして燻製肉や野菜が盛られた皿を次々並べていった。
「おいリナリア、皮をそのまま机に置くな。受け皿にこれを使え」
「うまそっす。隊長の料理大好きですほんと」
「あなたたち林檎何個食べるの?3個ずつくらい剥けばいい?」
「それ1人分の話をしてるのか?少しでいいぞ。少しで」
「俺そのままでもいっす」
賑やかな声が響く屋敷の中で、ノラはまるで実家で過ごしていた懐かしい日々を思い出していた。
あっというまに食卓が鮮やかに彩られる。リナリアの横にヴォルフが、ノラの横にフィンが座り、食事に手をつけた。
ノラは3人が食べ始めるのを見て、湯気の経つスープを恐る恐る口に運んだ。
(美味しい……)
スープが喉を通り、体の中がじんわりと温まっていく。
「美味いか?」
ヴォルフがノラに問いかけると、ノラは何度も頷いた。
「美味いっすー」
その横でフィンが喜んでいた。あまりに気さくな話し方ではあるが、ヴォルフの表情が変わらないため、いつものことなのかとノラは思った。
しかし普段表情の変わらないヴォルフが、リナリアの前に並んだ皿を見て顔を顰めた。
「おいフィン。リナリアの皿には肉を盛らなくていいと言っただろう。肉は食べないんだ」
「あー。隊長の焼く肉、ほんとうまいんで。とりあえず盛っておきました」
フィンの軽い返事の後、リナリアが皿の上の燻製肉をせっせとヴォルフの皿に移した。
(貴族なのに。普通の、庶民の家族みたいなことしてるわ)
ノラが白パンを齧りながらその様子を眺めていると、隣でフィンが口を開いた。
「奥様、肉苦手なんすか」
フィンの言葉に、リナリアは首を傾げた。
「好きも嫌いも、食べる必要がないの。なら好きな人が食べればいいでしょう」
その言葉に、水を飲んでいたヴォルフがむせた。
「好きな人?」
「あなたお肉好きなんでしょう」
ヴォルフが眉間に皺を寄せたり、首を傾げたり、何とも言えない表情を見せていた。
「ん。君は僕が肉が好きだと思って、自分は食べなかったのか」
「そうよ」
「そうだったのか……」
ノラが屋敷で見かけるヴォルフの顔は、いつも張り詰めているような、冷たい印象を持たせるものだった。
しかし2人の様子は、どう見ても仲睦まじい夫婦であり、お互いにとてもリラックスしているように見えた。
(魔女と、魔女殺しの英雄には、見えないわ)
ノラの視線に気がついたリナリアと目が合った。ノラは咄嗟にその視線を逸らしてしまった。
「ところでリナリア、君はノラと知り合いだったのかい」
ヴォルフの問いに、リナリアに変わってノラがぶんぶんと首を横に振った。
「話したことはないけれど。でも、私はこの子の存在を知っていたわ」
「名前を覚えるほど、か」
「ええ。魔女のシルシが付いていたから」
魔女の言っていることは、ノラにはほとんど理解できない。それは未知の、人ならざるものの話だった。
「その、シルシというのは、何なのでしょうか」
ノラが遠慮がちに口を開いた。
「何をしたかったのか、それは付けた魔女にしか分からないわ」
リナリアの答えにノラが小さく肩を落とした。得体の知れない不安が胸の中でじわりと広がった。
「でも、もうこんなことは二度と起きない。それは確かよ」
ノラが顔を上げる。
その言葉は、広がり続けるノラの不安をせき止めるようだった。
「問題は、ノラの今後だな」
ヴォルフが眉間に皺を寄せていた。
「君のこれからについては、まだ悩んでいるよ」
ヴォルフの言葉に、ノラが俯く。
(私が、奥様を、魔女だと知ってしまったから)
ノラの隣に座るフィンが、心配そうにノラを見た。そしていつもの様子で口を開いた。
「あー。俺の妹も、ノラの言った“魔女の話”を間に受けたんじゃなくて、ただ精神的におかしくなってないか心配してただけですし。これまで通りじゃだめですか。妹と仲良いんですよ、この子」
フィンの言葉にヴォルフが息をついた。
「俺もできるならそうさせてやりたいさ。だが、リアリアの秘密が広まるのは絶対に避けたいんだ」
誰にも言いません、とノラは言いたかった。
しかし口約束だけではヴォルフが納得できないのだろうということは、容易に想像が付いた。
困惑する食卓の静寂を破ったのはリナリアだった。
「別にいいんじゃない。これまで通りで」
「そうはいかないだろう。この子が君のことを話さないという確証はない」
「ここはあなたの屋敷だもの。あなたが違うと言えば、それで終わりじゃない」
あっけらかんとしたリナリアに、ヴォルフは、ただため息をつくことしかできなかった。
菫色の瞳は、何を考えているのか誰にも分からない。
「ああでも、ノラ。あと数日はこの屋敷で過ごしてほしいわ。シルシは消えたけど、まだ傷が残っているから。それが癒えるまで」
リナリアの言葉に、諦めた様子のヴォルフが続けた。
「だ、そうだ。ノラ、それまでに今後を考えておく。悪いようにはしないから安心してくれ」
ノラが小さく頷く。
息を深く吸うと、甘い香りが胸に広がった。
魔女を前にしても、不思議と身体は震えない。
恐ろしくて、理不尽な。それが魔女のはずなのに。




