第2章 黒い霧の噂(2-1)
夏の終わりを迎えた月影町は華やいでいた。
月影大社で『月下の祭り』がおこなわれるからである。
この地域最大の祭礼で、神輿や山車が練り歩き、参道から溢れた出店が目抜き通りにも並び、例年大勢の観光客が押し寄せ、連日連夜の大賑わいが続く。
特に鉄道が通った今年はどれほどの人出になるかは予想もつかず、町の人々はどこで誰と出会っても祭りの話題で持ちきりであった。
町中が提灯やぼんぼりに彩られ、この時期だけは月光堂の出窓にも月影大社のお札が飾られる。
そして祭りとは別に、ここのところ瑠璃の表情は明るかった。
美津子と彩花が坂巻家の親子と帝都へ行っているからだった。
樺島男爵家との交渉を進めるために、あと数日は戻らないことになっていた。
父が亡くなって以来、虐げられる日々から解放されたのは初めてのことで、いまさらながらに瑠璃は自分の置かれていた環境のいびつさを自覚したのだった。
食事は文乃が用意してくれる。
「私も独り身だし、せっかくだから一緒に食べてくれる人がいた方がうれしいのよ」
そんな好意に甘えるだけでも、瑠璃の心は少しずつ癒やされていくのだった。
夕方近くになって、瑠璃が倉庫になっている月光堂の二階で商品を整理しているときだった。
蓄音機でシャンソンを流している店内に、すっかり常連となった小林記者が駆け込んできた。
「橘さん」と、舶来の雑誌を眺めていた文乃へまっすぐ顔を突き出す。「とんでもない噂、聞きましたか?」
「いきなりどうしたの」と、文乃はあきれ顔で椅子を勧める。「汗だくで駆け込んでくるなんて、犬にでも追いかけられたの?」
「野良犬どころじゃありませんよ」と、椅子をきしませ腰を下ろす。「人さらいですよ」
「まあ」と、深刻そうな話に文乃が身を乗り出す。「誰、子ども?」
「それがね、奇妙なんですよ。いなくなったっていう噂はあるんですけど、誰がいなくなったのかは分からないんです」
「なによ、怪談話につきあうほど暇じゃないわよ」
「違いますって」
荒い息が収まらずに会話が途切れたところで、文乃が麦茶を取りに奥へ引っ込んだ。
入れ替わりに、二階から補充商品を運んできた瑠璃が姿を現した。
「いらっしゃいませ……」
ささやくような声に顔を上げた小林記者は椅子から飛び上がった。
「お邪魔しております。あ、あの……私、帝都新聞で記者をしている小林……小林圭介と申します」
「は、はあ……どうも」と、困惑気味に瑠璃は頭を下げた。
「わ、私はですね、その」と、鳥打ち帽を脱ぎ捨て目をキョロキョロさまよわせる。「えっと、め、名刺を……」
おずおずと瑠璃が受け取ろうとした瞬間、痙攣でも起こしたかのように小林の手からこぼれ落ちてしまった。
「あっ」
「こ、これは失礼」
拾い上げようと二人ともしゃがみ込んで手を伸ばせばテーブルの下で指先が触れあいそうになり、引っ込めようとあわてて同時に頭をぶつけてしまう。
と、そこへ文乃が戻ってきた。
「何やってんのよ。とりあえず、これでも飲んで落ち着きなさいよ」
出された麦茶を喉を鳴らして一気に飲み干すと、小林は扇子を取り出し鷲の羽ばたきを真似るかのように派手に音を立ててあおぎはじめた。
「いやあ、なんでしょうね。汗が止まりませんね。ハハハ……」
冷ややかな目でニヤける文乃が瑠璃を自分の隣に座らせた。
「ねえ、瑠璃ちゃん、記者さんの怪談話、聞いてあげてくれる」
「こ、怖い話ですか」
エプロンのフリルをぎゅっと握りしめる瑠璃にチラリと視線を向けながら小林がメモ帳を取り出した。
「怪談ではなく、あくまでも事件の話なんですよ」
「まあいいから話してみなさいよ」
向かい合って座るお互いの顔をまっすぐに見られない若い二人の様子を眺めながら、文乃は小林に話をうながした。
「やたらと梟が鳴く薄気味悪い夜だったそうですよ」
「やっぱり怪談じゃないの」
投げやりな合いの手を無視して小林は続けた。
「月影大社の鳥居の前を通りかかった人が、神域に入っていく男を見かけて、こんな遅くにお参りかって、何気なく見ていたんだそうですよ。そしたら、黒い霧がその男を取り巻いて姿が見えなくなってしまったそうなんです」
真剣に語る小林に対し、文乃は気怠そうに頬杖をついている。
「夜なのに、どうして黒い霧が出たって分かるのよ」
「もやもやっとしてたんじゃないですか」
「暗いから見えなくなったってだけでしょ。あんた、そんな記事書いて送ったら、一生帝都に戻れないわよ」
「いやでもね、消えたのは一人じゃないんですよ。最近、何人かの男女が消えてるって聞き込みで分かったんですよ」
「消えたっていう証拠は? まさか、朝になったら帰ってきてましたなんてオチじゃないでしょうね」
小林が背もたれに体を預ける。
「証拠はありません」
「馬鹿馬鹿しい。どうせ酔っ払いが夢でも見たか、見間違えたんじゃないの。誰かが最初に言った話を、自分も見たようなつもりで、男だったのも妙齢のご婦人の方が盛り上がるとか、そうやって噂って広がるものでしょ。よくある話よ」
「確かに根も葉もない怪談話かもしれません。でも、噂が流れた背景には何か意味があるんじゃないかって思うんですよ」
「一丁前に記者の勘ってやつ?」
茶化し続ける文乃に対し、小林の目は鋭さを失ってはいない。
「鬼に食われたんじゃないかって言ってた人もいます」
――鬼……。
それまで怪談話と、おびえる表情だった瑠璃が目を見開く。
文乃はその変化に気づいていた。
「そういえば、瑠璃ちゃん、この前、森の奥で知らない男の人に会ったのよね」
「え、あ、はい」
「そ、それはどんなやつでしたか」と、小林が食いつく。
「仕立てのいい黒い背広を着た身なりのきちんとした方で、とても親切にしていただきました」
「じゃあ、鬼じゃないですね」
肩を落とす小林を見て文乃が立ち上がった。
「ねえ、瑠璃ちゃん、小林さんに町を案内してあげて」
「でも、お仕事は?」
「いいのよ。新聞に協力すれば、うちの宣伝になるでしょ。ね、記者さん」
「そ、それはもう、このお店のことも記事に書きますよ。古き伝統の町に進歩の明かりをともす舶来雑貨店と、その美人店主」
「だそうよ、瑠璃ちゃん」と、ひらひらと手を振って文乃は二人を送り出した。
浮かれ気分の町は出店の設置に忙しい男たちや浴衣姿でそぞろ歩く娘たちなど、様々な人で賑わっている。
「祭りは明後日なのにもうこんなに賑わうんですね」
一歩後ろをついてくる瑠璃に向かって振り向きながら小林は話しかけたが、胸元に手を当ててもじもじとするばかりで返事がない。
「瑠璃さん、離れてるとはぐれてしまいますよ」
「ええ、でも」と、瑠璃が立ち止まる。「私、前掛けをしたまま出てきてしまって」
白い前掛けは女房衆の割烹着のようでそれほど目立つわけではないが、西洋風なフリルが人目を引くようだ。
「そんなに気にすることはありませんよ。似合いますから」
「そうでしょうか」
「ええ、帝都のカフェーでもよく見かけましたし」
遠く離れた古い町では何の参考にもならない意見で押し切った小林は鳥居を指さし先を促した。
「もう虫が鳴いてますね」
いつのまにか季節は移ろい、夕暮れを迎える時間も早くなっている。
虫の音に耳を傾けながら二人は出店の並ぶ参道を歩いた。
そこかしこに『名物草団子』の幟旗がはためく。
「瑠璃さん、だっ、団子でもいかがですか」
「いえ、私は……」と、瑠璃は亀のように首を引っ込める。
「ここの名物なんでしょう?」と、小林はつんのめるように声を張った。「実際に食べた感想が大事なんです。取材に協力してくださいよ」
強引に縁台に座らせ、小林は二人分の団子を注文した。
こしあんを盛った団子は丸々と太っていて食べ応えがありそうだ。
「さあ、どうぞ遠慮なく」
「では、いただきます」
餡をこぼさないように口に入れると、二人は頬を膨らませながら口元を押さえて見つめ合う。
「おいしいです」
「名物と言うだけありますね」
頬が落ちそうな瑠璃の笑顔を目の端にしっかりと捉えつつ、小林は団子の甘さを味わっていた。
瑠璃がしみじみとつぶやく。
「こんなおいしいもの、初めて食べました」
「え、地元なのに、食べたことなかったんですか」
思わず聞いてしまって小林は後悔した。
取材で知った如月家の事情を察すれば瑠璃に答えさせるのは酷だと分かりきっていることだ。
たとえ、裕福だった幼い頃に食べていたとしても、十年の年月の間に記憶は遠のいてしまっているであろう。
二人の間に沈黙が流れる。
その無言の言い訳に頬張るには草団子の苦みはちょうど良かった。
食べ終わって参拝しに行こうと立ち上がったときだった。
「まあ、見てください」
瑠璃が指す空を見上げると、月影山のちょうど真上に、半月がぽっかりと浮かんでいる。
「月がきれいですね」
そうつぶやく瑠璃の横顔を見つめながら、小林もそっとささやいた。
「こんないい月を一人で見たらもったいないですよね」
「ええ、そうですね」
「月もきれいですが、この町にも美しいものはたくさんありますよ」
瑠璃が小林に顔を向けた。
「この町のことをいろいろ取材なさってるんですね」
「いえ、その、そういうことではなくて」と、小林は耳を赤く染めてうつむいく。「それは瑠璃さん……」
「はい、なんでしょうか」
名前を呼んだつもりではないのに、純朴な瞳を返されてしまった小林は照れくささに耐えかねて話題をそらした。
「あ、あのですね。瑠璃さんは小説なんかは読みますか?」
「文乃さんが雑誌の連載小説を読んでいるみたいですけど、私はあまり」
「帝都で評判の小説を今度取り寄せてお貸ししますよ」
「でも、読んでいる時間がありませんから」
「ご婦人方に評判の恋愛小説なんですよ」
と、小林が力説していると、参道にいた人々が一斉に鳥居の方へ駆けていく。
「おや、なんでしょうね」
話を中断して周囲に注意を向けると、噂が耳に入ってきた。
「坂巻の馬車だってよ」
「帝都に行ってたんだってな」
瑠璃の肩がピクリと跳ねた。
「行ってみましょう」と、小林は一緒に鳥居へ急いだ。
馬車が駅の方から目抜き通りをこちらに向かってくる。
四人乗りの車体は自分たちの晴れ姿を見せびらかすように幌がたたまれ、七三郎と将一郎、そして、美津子と彩花が沿道の人々を見下ろしていた。
将一郎は儀典用の軍服、彩花は幾重ものフリルで飾り立てたドレス、美津子は徹底的にしわを隠す化粧を施し、友禅の着物をまとい、七三郎は三つ揃いのスーツで悠然と口ひげをなでている。
浮ついていた町の空気が怨嗟の感情に変わり、沿道の人々が声を潜める。
「華族様だとよ」
「成金め。うまくやりやがったな」
鳥居の前で角を曲がり遠ざかっていく馬車を追って瑠璃が駆け出す。
「ちょっと、瑠璃さん」と、小林もあわてて追いかけた。「どうしたんです?」
「すみません。私、家に帰らないと」
ついてくる小林を瑠璃は止めた。
「月光堂の文乃さんに伝えてもらえますか」と、脱いだ前掛けを放る。
「わかりました。事情を話しておきます」
小林を置き去りにして瑠璃は走った。
馬車は路地裏の家ではなく、お屋敷街の方へ向かっている。
「お待ちください」
呼んでも馬車は止まらない。
「お願いでございます」
鼻緒が取れて脱げた草履を拾い上げ、裸足になっても裾を翻しながら賢明に馬車を追う瑠璃を町の人々が笑いながら眺めている。
かつて瑠璃が住んでいた坂巻の屋敷まで来てようやく馬車が速度を緩める。
当時はなかった鉄格子の門ができていて、使用人たちが両側から扉を引いて馬車を迎え入れようとしていた。
追いついた瑠璃は車体にすがりついた。
「お母様、彩花さん、お帰りなさいませ」
二人はツンと顎を向けたまま返事をしない。
「なんだおまえは」
使用人たちに引き剥がされそうになるが、将一郎がやめさせた。
「ああ、良い。この者は、如月家の関係者だ」
口から心臓が飛び出しそうなほど荒い息を落ち着かせながら瑠璃は四人を見上げた。
「お母様、今晩は家には戻られないのですか」
髪飾りで覆われた髪をなでつけながら彩花が代わりに答えた。
「私たちは、今日からこちらのお屋敷に移りますの」
「では、私は……」
「おまえは薄汚いあの家にいたらいいでしょ」と、美津子が吐き捨てる。
車体に取りついた瑠璃の手を彩花が扇子で払いのける。
「一緒に住むなんてありえませんわ。お姉様は平民。私たちは華族。人間の格が違いますもの」
「まだ正式に決まったわけではありませんよ」と、将一郎は渋い表情で割って入った。
「でも、後は手続きだけじゃありませんこと?」
七三郎が指を鳴らした。
「御者、早く入りなさい」
「かしこまりました、旦那様」
裸足で立ち尽くす瑠璃をおいて馬車が蹄を鳴らして動き出す。
鉄格子の向こうに消えていくその後ろ姿を見送りながら、瑠璃は胸の勾玉を握りしめていた。




