(1-6)
◇
瑠璃は月光堂の店内で舶来物の香水瓶を磨きながら、陽光に映える琥珀色の輝きに目を細めていた。
雑貨店で働いている間だけは美津子の罵声や彩花の嘲笑から解放される。
いつか、こんな瓶に自分の夢を詰められたら――そんな小さな願いが、瑠璃の心を温かくするのだった。
それにしても、昨晩の出来事は夢だったのだろうか。
あれから帰宅して結局のところ、美津子も彩花も瑠璃のことなど放置して先に眠っていたのでお参りに行ってきたかも問い詰められなかったし、蚊に食われたかすら確認されなかった。
首筋の痕のことは家では自分も気にしなかったが、店で文乃に聞かれて初めて鏡に映してみた。
「瑠璃ちゃん、その痕、蚊に食われたのではないわよね。どうしたの?」
「昨晩、出会った殿方につけてもらいました」
「ちょっと、何言ってんの」と、目を丸くした文乃が肩を揺する。「まさか、森で悪い男に何かされたんじゃないでしょうね」
「いえ、提灯に火をつけてもらったり、鼻緒をすげ替えてくださったり、親切にしていただいただけです」
「そ、そうなの」と、文乃は落ち着きを取り戻しつつも、まだ疑っているようだった。「このへんの知ってる人?」
「いえ、見かけたこともない方でした」
「怪しいわねえ。夜中に森にいる男なんて、ろくなやつじゃないでしょ。本当に変なことされなかったのね?」
「変なことって……どんなことですか?」
純真無垢な瞳のまぶしさに文乃は苦笑するしかなかった。
「まあ、大丈夫そうだからいいわ。私は奥で帳簿を見てくるから、ちょっとの間、店番よろしくね」
「はい、分かりました」
文乃が奥へ引っ込むと、ちょうど二人連れの若い女性客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
できるだけ明るく声を張って迎え入れた瑠璃は、壁際に下がって気配を消しながらいつでも客の問い合わせに答えられるように構えていた。
仕事中は着物の上にフリルやリボンで飾り立てた西洋の前掛けをかぶっているので、みすぼらしさを隠せるが、背中を見られるとやはり目立つので、なるべく壁際に立って接客するようにしているのだ。
客は二人とも女学校の洋装制服を着ている。
「このハンカチーフ、肌触りが素敵ですわ」
「本当に。新作ですのね」
二人が話題にしているのは仏蘭西の高級品だ。
窓から差し込む光で絹のレースがきらめき、西洋の宮廷でも思い浮かべているのか、二人の目はうっとりとしている。
「お父様にお願いして買っていただこうかしら。でも、この前も仏蘭西の棒紅をおねだりしたばかりですし」
「それならお母様にお話しして買わせた方がいいかも」
「それだと、わたくしが使いたいときに使えませんわ」
くすくすと笑みをこぼしながら会話を続ける二人を眺めながら、瑠璃は友人と呼べる話し相手もいない自分の境遇と比べそうになって、胸に下げた勾玉をじっと握りしめた。
と、そのときだった。
店の入り口に吊るされた鈴がチリンと鳴り、もう一人客が入ってきた。
「いらっしゃいま……」
絶句する瑠璃に向かってまっすぐに入ってきたのは彩花だった。
彼女はフリルのブラウスとロングスカートに身を包み、赤いリボンで飾った帽子を少し傾けて被っている。
手に持つパラソルは、町の若い女性たちの間で流行の舶来品だ。
すべて瑠璃の給金を巻き上げて買ったものだ。
彩花は店内を見回し、わざとらしく鼻で笑う。
「ふーん、相変わらず地味なお店ね。ま、お姉様にはとてもお似合いですこと」
華やかな品を眺めて談笑していた女学生たちが眉をひそめあって出ていく。
「彩花さん、お願いだから、静かにしてください」
なだめようとしたのがかえって怒りを買ったようだった。
「私ね、ああいう気取った女学生が大っ嫌いなのよ。女学校にいた頃に、散々ああいう同級生に笑われたのよ。あいつらだって、親の金で物を買ってもらってる役立たずのくせにさ。持ち物を自慢して、持ってない人を仲間はずれにするの。ああ、もう、本当にむしゃくしゃする」
瑠璃の給金で買った服で着飾っていて他人のことなど言えるはずがないし、放校処分を受けたのも自身の素行が原因なのに、それを他人になすりつけるように感情をむき出しにする彩花に瑠璃はあきれてしまったが、その思いは口には出さずそっと飲み込むしかなかった。
彩花は壁際のガラス棚に目をやると、そこに陳列された舶来の香水瓶に注目した。
透明なガラス瓶に彫られた花模様が淡い琥珀色の液体と一体化して優雅に輝いている。
瑠璃の給金全部でも買えないほどの高価な品だ。
「ねえお姉様、坂巻家の将一郎さんも帝都にいらっしゃったんだから、こういう舶来の香水をつけてる女性が好みなんじゃないかしら」
彩花は瓶を手に取り、ふたを開けて匂いを嗅ごうとする。
瑠璃は慌てて手を出した。
「彩花さん、それはお店の商品だから」と、言いかけて声を落とす。「なるべく手を触れないでください」
店の奥にいる文乃はこのやり取りにはまだ気づいていないようだ。
彩花は口元をゆがめて笑い、香水瓶を手に持ったまま瑠璃に近づく。
「お姉様、さっきから私に指図ばかりなさるのね。私、お店のお客さんなんですけど」
「もうしわけありません」と、瑠璃は頭を下げた。
「お姉様、私、お見合いにつけていくのにこれがほしいですわ」
「でも、こんな高価なもの、私のお給金では買えないし」
無理な要求から逃れるように顔を背けた瑠璃に彩花は強引に踏み込んで耳元でささやく。
「お金がないなら盗めばいいじゃないの」
「そんな」
「お姉様は私と将一郎様のお見合いが妬ましいのですね」
「そういうわけでは……」
実際のところ、かつて婚約を申し込まれた相手とはいえ、幼い頃のことで、見合いの話には驚いたものの瑠璃にはもう特別な意識はない。
むしろ裕福な家に嫁いでくれれば、少しは継母と義妹の生活を支える負担が軽くなるかもと期待しているくらいだ。
だが、彩花は容赦なく追い打ちをかけてきた。
「しかたがありませんわ。お姉様に認めてもらえないので婚約は白紙にいたしますと将一郎様に申し上げなければなりませんわね。お母様もどんなにお嘆きになることかしら」
「わ、私は別に反対など」
「なら、この香水、私のために手に入れてくださるのね」
彩花は香水瓶をガラス棚にわざとらしくたたきつけ、派手な音を店内に響かせた。
文乃に聞かれるのではと、心臓が縮み上がるような心地がして瑠璃は陳列ケースに両手をついて体をやっと支えていた。
「お見合いは明日だから、今晩、帰りにこの香水を持ってきてくださるかしら」
「む、無理です。できません」
「なら、お母様に言うしかないわね。どんな仕打ちが待ってるかしら」と、彩花は目を見開いて妖怪のような笑みを浮かべる。「安心しなさいな。命を失うほどのことはしないでしょうから。だって、そしたら痛めつけることができなくなってしまいますものね」
瑠璃の顔が青ざめ、胸元の勾玉を握りしめるが、屈辱と恐怖に打ち砕かれた心にはもはや反論する気力はひとかけらも残っていなかった。
「……わかりました」と、涙をこらえてつぶやくのが精一杯だった。
彩花は満足げに微笑み、「期待していますわ、お姉様」と言い残すと、パラソルを振り子のように揺らしながら店を出ていった。
ドアの鈴がチリンと鳴り、静寂が店内に戻る。
だが、瑠璃は彩花の脅しと文乃への裏切りに対する呵責に挟まれ、身をこわばらせたまま壁際で人形のように立ち尽くすばかりだった。
――どうしたら、どうしたらいいの……。
瑠璃は彩花が置いていった香水瓶を手に取った。
小さな夢が詰まっていると思っていた琥珀色の液体が揺れている。
「瑠璃ちゃん、どうしたの? 顔色が悪いわよ」
いつの間にか店の奥から戻っていた文乃が横顔をのぞき込んでいた。
ハッと身をこわばらせた瑠璃の手から香水瓶が落ちそうになる。
かろうじておさえたものの、手の震えは収まらず、瓶を置くとガラス棚がカタカタと音を鳴らした。
「お客さんが来てたみたいだけど、何かあったの?」
「いえ、何も買っていかれませんでした」
「そう」と、文乃は柔和な笑みを向けて朗らかに手をもみ合わせた。「商品のことを聞かれたりしたら、私を呼んでくれればいいからね」
「はい、そうします」
「ここで瑠璃ちゃんに働いてもらって、私、すごく助かってるのよ。何かあったらなんでも言いなさいね。私はあなたを自分の娘……」と、言いかけてクスリと笑う。「年の離れた妹のように思っているのですからね」
「はい、ありがとうございます。でも、なんでもありませんから」
文乃の優しい声に一瞬心を開きかけたものの、彩花の脅しの重みに口をつぐむしかなかった。
夕方近くになって文乃が瑠璃に紅茶とビスケットを出した。
「お仕事中なのに、いいんですか?」
「缶を開けちゃったから、早く食べないと湿気っちゃうのよ。遠慮しないで」
ふんわりと香るバターと小麦粉が口の中で甘くとろけ、紅茶のほのかな苦みと調和し、瑠璃の頬が緩む。
「おいしい?」と、文乃もボリボリとビスケットをかじる。
「はい、とっても」
文乃の好意に甘えつつも、瑠璃の頭の中では葛藤の渦が彼女を深みへと引きずり込んでいた。
窓の外がガス灯で香水と同じ琥珀色に染まる時間帯になってもまだ瑠璃は悩んでいた。
いよいよ帰宅する時間だった。
前掛けを外した瑠璃に文乃が声をかけた。
「今日もお疲れ様」
「はい……では、失礼します」
膝がガクガクと震え、声が裏返る。
最後の最後まで覚悟を決めきれない。
盗むことはできない――それは文乃への裏切りであり、自分自身の尊厳を貶める行為だ。
この店は、瑠璃にとって家よりも温かい隠れ家だった。
文乃の笑顔、優しい言葉、これまでに与えられた親切、そのすべてを裏切る自分を想像すると、涙が溢れそうになった。
しかし、彩花の脅しにあらがう力も選択肢も瑠璃にはない。
文乃に背中を向け、香水瓶を見つめながら一歩踏み出そうとしたそのときだった。
「瑠璃ちゃん」
心臓が飛び出しそうで思わず瑠璃は口を押さえて立ち止まった。
瞬間、涙がこぼれ落ちる。
「その香りはあなたには似合わないわよ」
気がつくと文乃の手が瑠璃の両肩に乗っていた。
――見抜かれていた。
終わりだ。
何もかもすべて終わったのだ。
人として、やってはいけないことをしてしまったのだ。
振り向いた瑠璃は文乃に土下座で謝罪した。
「申し訳ありません。これまでずっとよくしていただいた恩を仇で返すことになって」
言葉は涙で声にならず、最後はただ「申し訳ありません」と何度も繰り返すばかりだった。
「顔を上げて、ね、瑠璃ちゃん。そんな格好していちゃだめよ。立ち上がって」
文乃は優しく瑠璃に手を差し伸べて抱き寄せながら立ち上がらせた。
「あなたは何もしてないんだから」
「でも……」
盗もうとしていたのだ。
その悪意はまぎれもなく瑠璃の心を支配していたのだ。
あと一歩前に踏み出していたら、背中で文乃の視線を遮って手を伸ばし、香水の瓶をひったくって走って逃げようとしていたのだ。
「大丈夫。ちゃんと分かってますからね。心配しなくていいのよ。何も言わなくていいから、ね」
文乃は瑠璃を抱きしめながら自分の境遇を語りかけた。
「私もね、母親からきつく当たられて家を出たから瑠璃ちゃんの気持ちは分かるわ。私は逃げられたけど、瑠璃ちゃんはそうするわけにもいかない。でもね、この店にいるときだけでも安心してほしいの。頼ってくれていいのよ。何でも相談してね」
背中をさする文乃の胸にもたれながら瑠璃は声を上げて泣きながら何度も何度もうなずいていた。
「いつか出口が見えるときが来るから。すぐには解決しないかもしれないけど、あきらめちゃだめ。自分に負けちゃだめなのよ」
しばらくして様子が落ち着いたところで、ハンカチで涙を拭かせた文乃が瑠璃に香水の瓶を握らせた。
「これを持っていきなさい」
「そんな……いけません、文乃さん」
目を丸くして首を振る瑠璃に文乃は片目をつむってみせた。
「それね、少し前に仕入れたときの試供品の瓶なの。今の中身は紅茶」
「えっ、そうだったんですか」
「もちろん、お買い求めのお客様には奥から本物を出してきてるわよ」
文乃は茶目っ気のある笑みを浮かべるが、瑠璃は手の中の香水瓶を見つめたまま迷っていた。
「そ、それだと……」
彩花に偽物だと気づかれてしまうのではないだろうか。
「意外と分からないわよ。西洋の香水って元々きついから、結構香りは残ってるの。だから、奥ゆかしい瑠璃ちゃんには似合わないってわけ」
ようやく瑠璃に笑顔が戻った。
「この香水瓶を望んだのはあなたの妹さんなんでしょ。だから、これを持っていけばいいわ。盗んだなんて言わないで、お店でお見合いのことを話したらお祝いにくれたと言いなさいね。期待外れの香りだったら、きっとこのお店の悪口を言うでしょうけど、私はかまわないから」
「すみません。何から何までお気遣いいただいて」
「瑠璃ちゃん」と、文乃はガラス扉を開けてガス灯に照らされた町へ送り出す。「忘れないでね。あなたの帰ってくる場所はここだってこと」
「はい、失礼します」
琥珀色の町に消えていく瑠璃の背中を文乃はしばらくの間見守っていた。
と、そこへ若い男が歩み寄ってきた。
「今晩も話を伺っていいですか?」
「あら、熱心ね」と、文乃は相手を迎え入れた。
「ペンの力で悪事を暴く。それが仕事なので」
「今日は紅茶だけど、いいかしら?」
「ええ、いただきます」
店の中を見回した小林記者は丸眼鏡をクイッと上げてメモ帳を取り出した。




