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月影大社の由緒にいわく、闇に覆われていた地上に月神が舞い降りた際、木の根に着地して足の裏をけがしてしまい、歩くたびに血が飛び散り、それが魑魅魍魎となって闇の中で悪事を働き人々を苦しめたという。
血を失った月神は痩せ細り、輝きを失ってしまい、悪霊を退治することができなかった。
そのとき、月神の前に現れた娘が自分の血を分け与えたが、その血があまりにも冷たくて月神は失神してしまうほどだった。
しかし、娘の介抱で光を取り戻した月神は、氷血の力で闇を凍りつかせ、悪霊を粉々に打ち砕いて成敗した。
光さす大地には平和が訪れたはずだったが、闇に逃げ込んだ鬼の一族は復讐をたくらみ、月神に力を与えた娘をさらい、森の奥へと連れ去った。
怒った月神は鬼の一族を追い、娘の居場所を突き止める。
自分の氷血と引き換えに鬼の一族を闇に封じ込めようとする娘に、月神は光の魂を授け、協力し合って鬼を成敗する。
闇を凍らせる血と光の魂が融合し、契りを交わした月神は娘の子孫に月下の血を受け継がせ、天へと帰っていったという。
以来、月影大社には月神の御子と呼ばれる娘が舞いを奉納する習わしとなり、月影町の平安が保たれている。
なお、このときに地に埋められた魑魅魍魎が浄化されて銀となり、人々に富をもたらすようになったというのが、もう一つの神話である。
幼い頃からこうした神話を聞かされ、自身も月神の御子として舞いを奉納した瑠璃にとって、夜の神社は闇の勢力がひそむおそろしい場所であった。
参道の提灯はすでに消灯され、神域は真っ暗だ。
大社の鳥居の前まで来たものの、瑠璃は足を踏み入れる勇気もなく、もらったビスケットを渇いた口に押し込んで飲み込んだ。
おなかが動き出して腹が鳴る。
二枚だけではかえって空腹が強調される。
だがそれでも、食べ物があるだけましだった。
父が亡くなって以来、夕飯はいつも美津子と彩花が食べ残したご飯粒を汁で溶かして飲むばかりだった。
病気にならないのが不思議なほど、瑠璃の体は少女の頃からほとんど成長していない。
みすぼらしい着物と骨と皮ばかりの体は、闇をさまよう案山子のようであった。
瑠璃は月神に遠慮して神域の外の脇道から奥へと進んでいった。
拝殿の裏手に奥社へと通じる山道が続いている。
文乃に持たせてもらった提灯の明かりはあっても、足下はおぼつかなく心細い。
山に分け入ってすぐに、露出した木の根につまずいて鼻緒が外れ、草履が脱げてしまった。
――痛っ!
足の裏に根のささくれが刺さって思わず瑠璃は転んでしまい、その拍子に提灯が消え、周囲は一瞬で闇に覆わた。
押しつぶされそうな漆黒の重みに腰が抜けて瑠璃は立ち上がることができなかった。
足と手のひらの両方から血が流れ出したのか、錆びた鉄のような臭いを感じる。
その臭気を嗅ぎつけたかのように闇の奥から梟の鳴き声が響きはじめた。
一羽、他の方向から一羽、さらにその奥から一羽、ホウ、ホホウ……ホウホウ。
森へ踏み入る狼藉者を警戒しているのか、合い言葉を投げ合うように鳴き声が重なっていく。
神話では怪我で流れた血から魑魅魍魎がわきだしたという。
まさか、そんな神話みたいに悪霊が……。
瑠璃は必死で傷口を押さえたが、血が止まったかどうかすら分からない。
引き返したくても帰り道も闇の中で、そもそもお参りもせずに帰宅したら、どのような仕打ちを受けるか分からない。
しかも、瑠璃はまだ蚊に食われてはいなかった。
そこらじゅう蚊が飛んでいるはずなのにどこもかゆくならない。
だが、それだと家に帰ることができない。
袖や裾をまくって肌を露出してみても、まるで蚊にすら無視されているようで、悲しくなってくる。
――なんで、私ばかりこんなことに……。
弱音を吐いたその時だった。
闇の中で、瑠璃は自分の胸元がぼんやりと光を放っていることに気づいた。
――勾玉が……光ってる?
勾玉だけではない。
体全体が白く輝き、着物から光がこぼれ周囲を照らしているのだ。
深い闇の中で、瑠璃の体が月そのものであった。
さらに、不思議な現象は続いた。
全く光のなかった山道に、まるで灯籠でも並んでいるかのように、一つ、また一つと、奥社に向かって明かりが灯り始めたのだ。
――なんだろう。
不思議ではあるが、怖さは感じない。
むしろ、宙に浮かぶ光の球に誘われているような気がして、瑠璃は消えた提灯を拾って立ち上がった。
恐る恐る奥へと足を踏み入れていくにつれて次々と明かりが灯っていく。
光を放つ勾玉を握りしめながら歩いていると、勇気がわいてくる気がする。
もう傷の痛みも血の匂いも感じない。
と、そのときだった。
突然、山から吹き下ろしてきた風が森を揺らし、冷たい気配が彼女を包む。
宙に並ぶ光の球が一瞬揺らぎ、闇の奥に何者かの気配を感じた。
――だ、誰?
恐怖で顎が震え、声がかすれ、言葉にならない。
立ちすくむ瑠璃に向かって、相手が一歩前に出てきた。
ぼんやりとその姿が瑠璃の放つ光に浮かび上がる。
体つきのがっしりとした長身の男だ。
相手が男だと分かった途端、瑠璃の膝が崩れ、へたり込んでしまいそうになる。
後ずさろうにも、露出した木の根にぶつかってまた足の痛みがぶり返す。
――あの山には鬼が棲む。
――悪人ですら夜の森へは入らない。
お、鬼に食われる……。
町の噂が脳裏に浮かび、瑠璃は恐怖に息をのんだ。
だが、勾玉の光は消えていない。
瑠璃はぎゅっとその光をつかんで相手の様子をうかがった。
黒い三つ揃えのスーツに包まれた肉体は外からでも分かるほど肩が盛り上がり、長い脚は大地に根を張っているかのように力強く全身を支えている。
森にはふさわしくない格好だが、鋭い眼差しは夜の獣のようで、ただならぬ気配を放っている。
それだけではなかった。
瑠璃は見てしまったのだ。
男の背中から炎のように沸き立つ角の幻影を。
それは男の背後の闇を切り裂くように巨大化し、そして一瞬で消えてしまった。
――お、鬼……。
勾玉を握りしめたまま瑠璃は体を震わせ、にじむ涙を必死にこらえていた。
「驚かせてすまなかった」
男の声は低く、穏やかな響きが森の静寂に溶け、瑠璃を落ち着かせようとする気持ちが伝わってくる。
「ここはそなたのような娘がこんな時間に一人で来るところではない」
瑠璃はかすれた声を絞り出し答える。
「……蚊に食われるまで帰れないのです。義妹の……彩花さんのお見合いがうまくいくように、月神様にお祈りを……」
男の眉がわずかに上がり、微かな笑みが浮かぶ。
瑠璃の体から放たれた光で二人の周囲は月に照らされたように明るかった。
「蚊に食われる、か。ふむ、ならば俺が印をつけてやろう」
男が一歩踏み出したかと思うと、次の瞬間、瑠璃は抱きしめられていた。
――え?
驚きのあまり抵抗もできず、心臓が跳ね上がる。
男の冷たい唇が瑠璃の首筋に触れ、ほのかな温もりが彼女の肌を刺す。
「あっ……!」
小さな声が漏れ、瑠璃の頬が熱くなる。
恐怖か、驚きか、それとも――名前のつけられない何かか。
この人は、誰?
知っているはずのない肉体の力に身を委ねると、熱を帯びるその感触になぜか安らぎに似た懐かしさすら込み上げてきた。
男はすぐに身を離し、彼女の目を覗き込む。
「これでいい。蚊には食われんが、文句は言われまい」
瑠璃の心の奥を見透かすように彼の瞳が一瞬揺れた。
「……あなたは、誰?」
瑠璃は震える声で尋ね、勾玉を握りしめる。
男は一歩下がり、黒いスーツの袖を軽く払う。
「俺は九条悠真。ただの通りすがりだ。だが、言っておく。もう二度とこんな時間にここに来るな。本当に鬼に食われるぞ」
彼の声には冗談めいた響きがあるが、瞳の奥には深い孤独が宿っていた。
「まあ、おそろしい……」
男は瑠璃の持つ提灯を指さした。
「貸してみろ」
提灯に手を入れ灯心に指先を触れただけですぐに明かりが灯る。
「まあ」
素直に驚く瑠璃に柔和な笑みを向けると、男はしゃがんで足の様子を調べ始めた。
「草履はあるか?」
「はい。でも、鼻緒が切れてしまって」
「俺がすげ替えてやろう」
瑠璃が差し出した草履に手をかざすと、やはり男は一瞬で鼻緒を直してしまった。
「あなたはいったい……」
聞いてはいけないような気がして瑠璃は言葉を飲み込んだ。
立ち上がった男は子どもを諭すように瑠璃の頭に手を置いた。
「もうここから先へは行くな。今宵は帰るがよい」
「はい。ありがとうございました」
下り坂には灯籠のような明かりが再び宙に並び、瑠璃の帰り道を淡く照らしている。
「気をつけて帰れよ」
男の声が梟のように闇に響き、振り返るとその姿はすでに消えていた。
瑠璃は宙に浮かぶ光に導かれて坂道を下りながら、首筋に触れた。
あの男の唇の感触が、冷たくも温かく、彼女の心にさざ波を立てていた。
彼女は勾玉を握りしめ、小さな勇気が胸に芽生えるのを感じた。
それを希望というのかは分からなかったが、自分の心に小さな温かさを感じたのは初めてだった。
――鬼に食われなくてよかった。
ほっと胸をなで下ろし、足取り軽い彼女の背後で、闇に同化した男がそっとつぶやく。
――もう、食われておるのだがな。
気づかぬか。
そんなつぶやきもまた闇に溶けて森は深い静寂に包まれるのだった。




