(1-3)
◇
掘り返されたくなかった思い出を抱えたまま瑠璃は家路を急いだ。
狭い路地は近所の人たちが洗濯の汚水をぶちまけるせいでいつもぬかるんでいる。
泥跳ねを気にしながら歩く瑠璃の首元で勾玉のペンダントが小さく揺れる。
早く夕飯の支度をしないと。
継母の美津子は家事を一切やらないし、働きもしない。
義妹の彩花は二歳下で、女学校に進学したものの素行不良で放校となり、今は家に引きこもっている。
生活費は遠い親戚から送金してもらっているらしいが、それだけでは足りなくて瑠璃の給金を全部使い込んでしまう。
罵声に侮蔑、時には暴力。
心も体も痣だらけだ。
世の中や自身の境遇に対する不満をすべて瑠璃にぶつけてくる二人の世話を、これからも続けていかなければならないと思うと、心臓が締め付けられ、手が震え出す。
家の前に立って深く息を吸うと、瑠璃は勾玉を着物の中に隠して引き戸を開けた。
「ただいま戻りました」と、かすれた声を絞り出す。
かまどのある土間の奥はすぐ居間で、薄暗い行灯が室内をぼんやりと照らしている。
囲炉裏端のちゃぶ台に肘をついた和装にひさし髪の美津子が気怠そうに一瞥をよこす。
「貧乏くさい声出すんじゃないよ。遅かったじゃないのよ」
その横では、優雅なウェーブのかかった耳隠しの髪をなでながら半袖ワンピースを着た彩花が裾を膝までまくり上げて雑誌を眺めている。
「おなかすいたわ、お姉様、早くして」
「まったく、鈍臭いんだから」
これでも今晩は二人ともまだおとなしい方だ。
いつもなら、囲炉裏の灰を投げつけられているところだ。
「すみません。すぐに夕飯の支度をします」
早速かまどに火をつける。
麦と雑穀でかさを増した米を炊き、大根葉の漬物と薄い汁物を用意する。
「ちょっと、あんた」
美津子に呼ばれ、瑠璃の体が飛び跳ねる。
「はい、なんでしょう」
「お金が足りないのよ。お給金を前借りしてきてくれる」
「おとといいただいたばかりです。お母様に差し上げたではありませんか」
「口答えするんじゃないよ」と、美津子が立ち上がる。「それだけじゃあ、お見合いの支度に足りないから言ってるんでしょう」
――お見合い?
彩花が雑誌をちゃぶ台の上に投げ出す。
「お姉様、今日ね、坂巻家からお使いの方がいらっしゃってお見合いを申し込まれましたの。もちろん、相手は将一郎さん」
そんな、まさか。
幼い頃の話とはいえ、元婚約者の名前に胸が締め付けられる。
絶句する瑠璃に仁王立ちの美津子が罵声を浴びせる。
「役立たずの姉なんだから、妹のためにこういうときくらいなんとかしなさいな」
「でも、お店のご主人には先月もお願いしたばかりですし。ご迷惑ばかりおかけするわけにはいきません」
「口答えするんじゃないって何度言ったら分かるの。よその人間と家族と、どっちが大事なの」
黙り込む瑠璃を見下ろしながら美津子が怒鳴りつける。
「縁談がうまくいけばこんな貧乏生活もこれまでなんだからね。貧乏神のあんたも女中として連れて行ってあげるから生活の心配しなくていいじゃないの」
「あら、それがいいですわね」と、彩花が勝ち誇ったようにゆがんだ笑みを瑠璃に向ける。「感謝してくださいね、お姉様」
「あ……ありがとうございます」
これまでも、これからも、自分の人生は自分以外の誰かのために捧げられるものだと決めつけられるたびに心がきしんで悲鳴を上げる。
だが、そうでもしないとこの町で生きていけないのも事実だ。
そんな思いがこみ上げるたびに、瑠璃はいつもじっとこらえて飲み込んできたのだ。
「それでね、お姉様」と、彩花が雑誌を突き出す。「帝都にいらした将一郎さんにお姉様みたいな恥ずかしい格好なんて見せられないでしょ。このお洋服がほしいのよ。私が着たら素敵でしょう?」
薄暗い光でよくは見えないが、月光堂で見た西洋のビスケット缶に描かれたお姫様の服装みたいで、いったいいくらになるのか想像もつかない。
――穴の開いた自分の着物も買い換えられないのに。
瑠璃はため息を隠しながらちゃぶ台の上に夕飯を並べた。
ちゃぶ台の脚は不安定で、茶碗によそった雑穀米と漬物の皿を置くたびにぐらつく。
汁物を置いたときだった。
空いた場所に彩花が雑誌を投げたせいでお椀が倒れて汁がこぼれる。
瑠璃はとっさに自分の着物の袖をかぶせて雑誌にかかるのを防いだ。
「あらやだ」と、美津子が瑠璃をにらみつける。「わざとこぼしたね」
「そんな」
彩花が雑誌をつまみ上げる。
「お姉様ったら、私の幸せが妬ましいのね。みっともない着物で、こんなことしかできなくてお可哀想に」
「すみません、今拭きますから」
「そんな雑巾みたいな着物で食卓を拭くんじゃないよ」
美津子に突き飛ばされた瞬間、胸元から勾玉のペンダントが転がり出た。
「またそんなのぶらさげて」と、彩花が紐ごと勾玉をひったくる。「こんな石ころですらお姉様には似合わないのに」
とっさに取り返そうとすると、彩花は囲炉裏へ投げつけた。
「やめて!」
瑠璃は思わず声を上げ、囲炉裏に手を伸ばす。
灰で手を汚しながら、彼女は必死に勾玉を探し、拾い上げた。
そんな瑠璃の慌てる様子を見て、二人が高らかに笑う。
「ほら、見てよ、お母様! お姉様ったら、灰まみれ」
「ほんと、みっともないったらありゃしない。石ころなんかに飛びついて。さっさと手を洗っておいで。汁も早く代わりをよこしな」
ちぎれた麻紐と勾玉を胸に押し当て、涙をこらえながら瑠璃はただ小さく頷き、「はい、すぐやります」と、表へ飛び出した。
なぜ、いつも私ばかりが……。
苦い怒りが一瞬だけ湧き上がるが、その熱はすぐに重い諦めに飲み込まれる。
井戸端で手を洗って戻ってくると、おひつのご飯は空っぽだった。
意地汚く食い散らかした二人はさらに理不尽を押しつける。
「ああ、かゆい」と、彩花がくるぶしを引っ掻く。「蚊に食われたじゃない。お姉様が虫除けのお香を焚かなかったからよ」
「ほんとに、気の利かない娘だこと」
「すみません。今すぐ焚きます」
「いまさらもう遅いわよ。どうしてくれるのよ」
「堪忍してください」
どうにもできないことを承知で威張り散らかす義妹に瑠璃はひたすら頭を下げた。
「あんたも蚊に食われなさいよ」と、美津子が楊枝で歯をせせる。「彩花のお見合いがうまくいくように、月神様にお祈りしてきなさいな」
月神様は大社の奥社にまつられている。
鬼に食われるという噂で、夜は悪人ですら近寄らない山奥だ。
月の光も差さぬ深い森の奥に一人で行くなんて……。
「今からですか」
「口答えしかできないのかい、この子は。ああ、もう苛々する。さっさと行ってくるんだよ!」
土間に蹴り落とした瑠璃に美津子は茶碗を投げつけた。
「たっぷり蚊に食われるまで帰ってくるんじゃないわよ」
「行ってらっしゃいませ、お姉様」
空腹を抱えたまま瑠璃は路地へとさまよい出た。




