(1-2)
◇
店を出た瑠璃は人目を避けるように目抜き通りの隅を歩いていた。
――早く帰って夕飯の支度をしないと叱られてしまう。
瑠璃は母の面影を知らない。
母は瑠璃を産んでまもなく亡くなり、父も十年前瑠璃が八歳の時に流行病で命を落としていた。
父は亡くなる前に後妻を迎えていたが、継母の美津子と義妹の彩花は瑠璃に厳しく当たり、家事のすべてを押しつけ、月光堂の給金はすべて取り上げられ、古着一枚すら買ってもらえないのだ。
如月家は代々銀山総元締めを務め、父は人望も厚い名士だった。
瑠璃も月神の御子に選ばれ、月影大社に舞を奉納したこともあるというのに、あの頃は穴の開いた着物ですら大事にしなければならなくなるとは思いもしなかった。
町外れから届く蒸気機関車の汽笛に人々が視線を向けると、定刻からやや遅れて黒煙を噴き上げながら黒鉄の機関車が姿を現した。
石畳を通して瑠璃の足にも重々しい響きが伝わってくる。
月影駅はレンガ造りの外壁と大理石の内壁が調和し、蓄音機のシャンソンで伝え聞く異国の歌劇場を思わせるほど壮大な洋風建築だった。
遙かな帝都と山間の町を結ぶ鉄道は、近代文明の象徴であり、列車が到着するたびに人々が見物に押し寄せる。
帰宅を急ぐ瑠璃も人波に流され、駅前広場へと引き寄せられていた。
「おい、聞いたか」と、若い職人が仲間の背中をたたく。「坂巻家の将一郎が帰ってくるんだってよ」
「しかも少尉様なんだろ。まったく、成金の息子のくせに偉くなりやがってよ」
「成金だからだろ。金があれば地位も買えるさ」
噂を耳にした瑠璃の足が止まる。
幼い頃、瑠璃は将一郎に会ったことがある。
如月家の番頭だった坂巻家が瑠璃と将一郎の婚約を申し入れてきたのだ。
父は断ったのだが、思えばその時から如月家は転落の運命をたどるようになったのかもしれない。
――私のせいだろうか。
人混みの中で瑠璃は麻紐で首にかけた亡き母の形見である勾玉をそっと握りしめた。
煤と焦げる油の臭いを漂わせながら駅舎に入ってきた機関車を見ようと、老若男女が改札口から顔を出す。
詰め襟制服の駅員が誇らしげに笛を鳴らし、「到着!」と号令をかけると、客車のドアが開き乗客が降りてくる。
その中でひときわ背の高い男に皆の視線が集中する。
「あれが坂巻の息子さんかい」と、風呂敷包みを背負った老婆が隣の女性にささやく。「帝都で立派になったって話じゃけど、随分と気取っとるねえ」
深緑色の軍服に並ぶ金ボタンを誇示するように胸を張り、靴音高らかにホームを歩く将一郎の表情は西洋の彫刻を思わせるが、口元に浮かぶ笑みは冷たく、当番兵に荷物を運ばせながら堂々と歩く姿は学校を出たばかりの若者とは思えない威厳に満ちていた。
駅舎に横付けされた馬車の側には、坂巻家の当主七三郎がシルクハットと三つ揃えのスーツで待ち構えている。
彼は口ひげを撫でながら、息子の晴れ姿に満足げな笑みを浮かべた。
「将一郎、よくやった。帝都で首席とは、坂巻家の名に恥じないな」
息子は軽く敬礼し、冷ややかな声で答える。
「父上、月影町は相変わらず土臭いですね。帝都を出たのは朝でしたが、いくら特等車でも、体が持ちませんよ」
「月影大社は帝も毎年行幸される聖地。その守護たる月影連隊は名誉ある軍人の出世コースだ。そんな軟弱でどうする」
「それはもちろん分かっております。しかし、帝都の空気を吸った後では、少々息苦しくて」
七三郎は笑う。
「まあ、そう言うな。坂巻家の将来はおまえの出世にかかっているのだからな」
馬車に乗り込んだ将一郎が群衆の一人に目をやった。
「父上、あれはもしや……」
七三郎はシルクハットを脱ぎながら冷笑を浮かべた。
「如月の娘だ」
「瑠璃さんが、なぜあんなみすぼらしい……」
絶句する息子に七三郎が耳打ちした。
「よく見ておけよ。かつての名家も没落すればああなるのだ。油断するなよ」
「はい、父上」
「帝都では、人は皆平等だなどと説く開化主義者もおるが、強い者が上に立つのだ。そして、その力とは財力だ。情けなど無用。弱者に手を差し伸べて足をすくわれたのが如月だ」
馬車が走り出す。
ガス灯と電灯に照らされた町並みは帝都とはまるで比べものにはならないが、それでも職業軍人の道を選んで町を出た時よりは発展している。
故郷に錦を飾る。
その言葉にふさわしい男として自分は帰ってきたのだ。
町も変われば人も変わる。
以前はなかった洋食屋の店を通り過ぎて、将一郎はかつての町の様子を思い起こしていた。
似合わぬ郷愁に浸っている息子に七三郎が告げた。
「おまえは如月の娘と婚約する」
「なんですって。たった今……」
困惑する息子の表情を楽しむように策士はニヤリと笑みを浮かべた。
「あの娘ではない。もう一人の方だ」
父の意図を理解できずに将一郎はじっと前を向いたまま黙り込んだ。
目抜き通りの角では、去りゆく馬車を見つめながら、若い衆が煙草を吹かしていた。
「銀山が廃れても、坂巻財閥が栄えてくれりゃあ、俺たちもおこぼれに預かれるかねえ」
「さあな」と、仲間が煙の輪を吐く。「金はあってもけちくさいからな、やつらは」
「でもよ、そもそもこの町に鉄道が来たのもみんな坂巻の財力のおかげなんだろ」
「おいおい、おまえ、そんな話を信じてるのか」
「なんでえ、違うのか」
「この町のために最初に鉄道を作ろうとなさったのは如月の旦那だよ。だがよ、例の件で計画は中止、会社を乗っ取った番頭の坂巻が手柄をかっさらったってわけさ。土地もただ同然で引き取ってな」
「抜け目のねえ野郎だな。ひょっとして、その、例の件とやらも坂巻の差し金だったんじゃねえのか」
「おっと、めったなことを言うもんじゃねえよ。この町で生きていきたきゃ、それ以上は詮索するなって」
「ちょっと、その話、聞かせてもらっていいですか?」
割って入ってきたのは鳥打ち帽に丸眼鏡の若い男だった。
「なんでえ、あんた、見かけねえ顔だな」
「私、今の汽車で来たこういう者です」
――帝都新聞特派員小林圭介。
色白の顔に人懐っこい笑みを浮かべながら差し出された名刺にはそう記載されていたが、職人たちは首をひねった。
「おいおい、俺たちゃ、こんな難しい字は読めねえよ」
「すみません。新聞記者なんですよ」
「へえ、そいつはすげえな。で、何を聞きたいって?」
「この街の噂なら、なんでも」
「それならよ、あの店の女主人に聞くといいぜ。俺たちと違って、都会の女学校出だからな」
職人たちはまだ明かりのついている「月光堂」を指さした。




