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◇
それからまもなく、月影大社に布告が二つ掲示された。
一つは例年秋に行われる帝の行幸に関する通常通りの官報だが、もう一つの内容に人々の注目が集まっていた。
《光の化身は大社にて舞を奉納すべし》
それ見た人々はみな首をかしげるのだった。
「月神の御子は毎年月下の祭りで舞を奉納するよな」
「でも、光の化身とは言わないよな」
「こんなの、聞いたこともないわよね」
「そうよね、何かの間違いかしら」
「いやいや、布告だぞ。さすがにそれはないだろ。分かるやつには分かるってことじゃないのか」
一か月の間、町は噂や憶測で持ちきりだった。
瑠璃は文乃から布告について教えられた。
だが、それが自分のことを言っているとは信じられなかった。
光の衣を持っていることは事実だが、恐れ多き御方の前で舞を奉納するなど、勘違いだったとしたら死罪に相当する不敬だ。
名乗り出る覚悟ができないまま時が過ぎていき、そしてついに、帝が月神大社に行幸される日がやってきた。
帝は人前に姿を現すことはないが、鉄道が開通して初めての行幸ということもあって、月影駅には帝都から到着したお召し列車だけでも一目見ようと町の人々が集まっていた。
「でもよ、なんでわざわざ帝都からこんなところまでお越しになるだ?」
「だよな。どうせ来るなら、月下の祭りの方が賑やかでいいんじゃねえの?」
若い二人の会話に中年女が口を挟む。
「それはそれ、これはこれ。年に一度、月影大社には八百万の神がみな集まるのよ。帝は太古の神話の時代から連綿と続く尊い神々の血を引いていらっしゃる御方でしょ。ようするに、親族会議の主役みたいなものってわけ」
「なるほどねえ。だから、この世に平和をもたらす偉大な力を持っていらっしゃるってわけか」
「そういうこと。それでも時々悪さをするやつらがいるから、気の休まる時もないんじゃないのかしらね」
「偉い御方っていうのも、大変なもんだねえ」
「ま、俺たちみたいな下々の人間は、酒でも食らって自分のことだけ考えてりゃいいわけだから気楽ってもんよ」
厳重な警備の中、ホームの専用口に御料馬車が横付けされた。
金縁の衝立が二重に並べられ、列車から馬車へ、尊き御霊の移動が行われる。
その時、月影連隊本部から近衛騎士団が姿を現した。
燃えるような金と緋の刺繍を輝かせながら軍旗が青空に翻る。
馬蹄の響きが石畳を打ち鳴らし、町民の視線が一斉に向く。
「なんて華麗なんだ」
「まるで神話の軍勢だな」
御料馬車の出発準備が整い、近衛騎士団の隊列が月影町の目抜き通りを堂々と進んでいく。
漆黒の軍馬に跨り先頭に立つのは、金ボタンが連なる軍服と黒い外套に身を包んだ騎士団長。
腰に下げた剣の鞘が光を鋭く反射し、胸元に並ぶ勲章が威厳を放つ。
深淵のような瞳は、神の守護者たる風格をたたえ、まるで神話の英雄が現世に降臨したかのような荘厳さが漂う。
近衛騎士団の隊列は、整然と石畳を踏み鳴らし、帝の紋章が刻まれた御料馬車の車輪の音と響き合う。
瑠璃は月光堂の前で文乃と一緒に行列を眺めていた。
沿道に詰めかけた町民たちが歓声を上げ、盛んに旗を振る。
「あの先頭の団長さん、帝の従弟なんですって!」
「九条悠真様でしょ」
「素敵よねぇ」
――九条……悠真。
え?
まさか……。
瑠璃は月光堂の軒先に立ち、凍りついたようにその光景を見つめていた。
胸の勾玉が小さく脈打ち、温かな予感が心を灯す。
隊列の先頭が月光堂にさしかかったときだった。
悠真の涼やかな視線が群衆を貫き、瑠璃を真っ直ぐにとらえた。
威厳に満ちた表情に、一瞬だけ柔和な笑みが浮かんだように思えた。
――間違いない。
悠真さんだ。
瑠璃の視線が釘付けになった瞬間、悠真の背に炎の角が燃え上がった。
それに呼応するように勾玉も輝きを増す。
だが、周囲の人は何も見えていないらしい。
鬼の正体も、勾玉の光も、周りの人々にはただの幻影に過ぎないのだった。
――急がなくちゃ。
「文乃さん、手伝ってください」
「え、何、急にどうしたの」
説明する間ももどかしく、瑠璃はすぐに月光堂に飛び込んで、光の衣を取り出した。
「まあ、瑠璃ちゃん、これはいったい……」
文乃ですら、記憶から消されているのだ。
開化の時代を生きる町の人にとって神話は過去の物語にすぎず、現実の事件はすべて科学的に説明がつく出来事であって、その背景に何があるのかは隠されてしまっているのだ。
だが、瑠璃は確信していた。
神話は過去の物語なんかではない。
その使命を果たそうとする者が守るべき叡智の結晶なのだと。
「文乃さん、私、行ってきます」
瑠璃は勾玉を握りしめ、目抜き通りの行列を追って月影大社に向かった。
先導してきた近衛騎士団は鳥居の前で隊列を分け、御料馬車を迎えた。
神域は祭祀の主催者たる帝以外の騎馬や車両は入れず、これより御料馬車は神官と侍従によって導かれる。
馬車が神域へ入ると、入り口は警備兵によって衝立が並べられ、立ち入り禁止となった。
そこへ、群衆をかき分けて白い着物を着た若い女と中年女が進み出た。
「わたくしが光の化身でございます」
きらびやかな綾織りの生地に銀糸の刺繍が施された衣装はまさに光の衣だった。
だが、九条悠真は馬上から冷ややかな目で見下ろした。
「その方は光の化身ではない」
「何をおっしゃいます」と、名乗り出たのは彩花だった。「わたくしは樺島男爵の娘。華族でございます。お見知りおきを」
「見知っておるぞ。坂巻家に嫁いだ如月の娘であろう」
「まあ、ご存じでしたか」と、美津子が裾を翻しながら歩み寄る。「九条様とお近づきになれて大変誇らしいですわ」
この日のために、二人は持ち出した金をつぎ込んで光の衣を複製していたのだった。
一度は洋服に仕立て直そうと解体までしたときに細かな柄まで見て覚えていたのだ。
しかし、悠真には偽物など通用するはずもなかった。
そもそも光の化身は衣装ではない。
気高き品性そのものの姿なのだ。
「その方ども、この俺の顔を忘れたのか」
血まで凍りつくほどの冷たい声に、二人の表情がこわばる。
「まさか、あのときの……」
それまでは空白になっていた記憶の穴に恐怖の場面が蘇り、金切り声を上げて彩花は両手で髪をかきむしってうずくまった。
神楽殿の鏡から抜け出した鬼士。
炎に包まれ、息ができずのたうちまわった苦しみ。
凄惨な記憶に顔は歪み、口から泡を吹いてのけぞる彩花を、美津子はかろうじて抱き留めた。
「忘れておれば良いものを。虚栄心で身を滅ぼすとは。浅はかな」
と、そこへもう一人、白い衣装をまとった娘が現れた。
「九条様」
「おお、瑠璃」
柔和な微笑みを浮かべた悠真は馬を降り、堂々とした足取りで気高き光の化身に歩み寄る。
「約束を果たしに参った。月下の花嫁、そなたを、迎えに来た」
悠真が手を握ると、瑠璃の目が潤み頬が震える。
「悠真さん……本当に」
「ようやくこのときが来た。そなたの光が、俺をここに導いてくれたのだ」
「またあんたかい」と、美津子が彩花の額に浮かぶ汗を拭きながら瑠璃をにらみつけた。「いちいち邪魔をする疫病神だね」
「そ、そうよ」と、彩花も息を整えながら体を起こす。「お姉様が光の化身なんて、ふさわしくありませんわ」
「瑠璃は月下の誓いにより月神の祝福を受けた光の化身に間違いない。その方どものように欲望にまみれた者こそふさわしくない」
「わたくしたちは華族ですよ。お姉様より格上であることは明らかですわ」
「既に樺島男爵家はその方どもとの関係を否定し、坂巻将一郎との養子縁組も取り下げておる。そなたらは華族ではない」
「なんですって!」と、美津子が真っ赤になって顔をしかめる。「あの野郎、さんざん使用人に手を出してたくせに」
「そもそも坂巻家から財産を盗み出した罪人ごときに、瑠璃を侮辱する資格はない」
彩花が悪びれずに叫んだ。
「あれはもともと如月家の財産よ。私たちのものだったの。だから盗んだんじゃないわ」
「黙れ!」と、雷鳴のごとき悠真の怒りが下った。「瑠璃の父は鉱毒や流行病で苦しむ人々のために私財のすべてを提供した。いわば、この町の皆の健康と幸せが遺産だ。おまえたちが坂巻家から持ち出したのは、七三郎が不正に蓄えた財産だ。それはつまり本来町の人々が得るべきだった富をかすめ取って集めた汚れた金ではないか」
「そうだ、そうだ!」と、遠巻きに見ていた群衆から野次が飛ぶ。
「何が光の化身だ。偽者め!」
「泥棒じゃねえか」
「瑠璃さんに謝れ!」
悠真が黒マントを翻し、右手を上げると衛兵が駆けつけた。
「この二人を捕らえ、警察に引き渡せ」
「はっ!」
直ちに両脇を抱えられ、手錠がかけられた。
「いやですわ。私は華族の娘なのよ」
美津子も髪を振り乱して抵抗する。
「離しなさい! 汚い手で触らないで」
瑠璃を虐げた高慢な仮面は剥がれ、屈辱と嘲笑に塗れた姿が衆目に晒される。
「さ、参ろうか」
悠真が瑠璃の手を取って神域への入り口へ誘う。
「月下の花嫁よ、そなたの光は新たな時代を照らす」
瑠璃はまっすぐに見つめ返した。
「はい、もう過去には縛られません」
悠真が頷き、二人で衝立の奥へ入る。
月影大社の神域に足を踏み入れると、勾玉が熱を持ち、光の衣が輝き、それに呼応して鬼士である悠真の背後に炎の角が揺らぐ。
二人を導くように白い梟が参道の両側に並ぶ。
神楽殿から雅やかな音曲が流れてくる。
「皆が瑠璃を待っている」
しかし、神域には誰の姿も見えない。
蓄音機で鳴らしているかのように、雅楽を奏でる奏者の姿もなかった。
ためらう瑠璃の背中に手を添えながら悠真が微笑みかける。
「さ、舞台へ上がってごらん」
恐る恐る階段を上がって、振り向いた瑠璃は息をのんだ。
――まさか。
神楽殿の周囲を八百万の神々が取り囲み、皆が瑠璃に注目していた。
一瞬、臆した瑠璃だったが、深く息を吸うと波紋が鎮まるように心が落ち着く。
ひとりでに足が鼓に拍を合わせ、腕が箏に呼応し、体が笙の調べに乗る。
光の化身が舞うと、八百万の神の宴が始まった。
正面に一段高く繧繝縁の畳が敷かれた観覧席があり、赤みを帯びた黄褐色の御袍をまとった人物のもとへ悠真が歩み寄る。
二人はどこか表情が似ている。
――どなたかしら?
悠真が何事か耳打ちすると、相手は鷹揚にうなずき返し、和やかに微笑みを交わし合う。
そして、悠真は舞台に向き直り、瑠璃をまっすぐに見つめた。
――悠真さん。
二人が視線を交わすと、瑠璃の胸で揺れる勾玉が白く輝き、興に乗った神々の手拍子が始まり、太古の詞で歌が沸き起こる。
流麗な光の軌跡を描きながら瑠璃は神話の世界に溶け込んでいくのだった。




