(5-4)
◇
月下の祭りから一か月、町は静けさを取り戻し、月影町の目抜き通りを秋風が吹き抜けていた。
蓄音機から西洋音楽が流れる月光堂の窓は元通りガラスがはまり、穏やかな日差しが店内に差し込んでいる。
瑠璃は、坂巻家で暮らす美津子と彩花とはほとんど関わりがなくなっていた。
『あんたのお給金なんて、今さらどうでもいいわよ』
『わたくしたちとは身分が違いますものね』
二人からさんざん見下されていても、受け流しておけばいい。
虐待されていた日々から抜け出せただけでありがたかった。
お給金を取り上げられなくなって、今ではちゃんとした着物を買うこともできる。
「瑠璃ちゃん、すごく似合うわよ」
文乃に褒められて瑠璃ははにかんだ。
「古着ですけどね」
光の衣は大切にしまってある。
いつか悠真との約束の日に着るために。
ふと、通りすがりの老女が月光堂の前で足を止め、窓越しに瑠璃に会釈した。
その仕草にはかつて向けられたような敵意はなく、どこか柔らかな温もりが宿っている。
疫病神と呼ばれ、町の人々の冷たい視線に耐えた苦難が遠い記憶のように感じられる。
文乃は演奏の終わったレコードを止め、窓の外を見やった。
秋の陽光に照らされた月影山が、遠くで静かに佇んでいる。
「瑠璃ちゃん、この町、なんだか変わった気がするわよね」
その言葉に、瑠璃はふっと笑みをこぼした。
文乃を始め、町の人たちはあの日、地下神殿で起きた真相を知らない。
悠真の存在も、光の衣のことも、鬼の噂ですら町の人々が口にすることはなくなっていた。
だが、それでいいのだ。
皆に知られなくてもこの町を守る存在がある。
それは月神大社にまつられた神々であり、その神々を守護する者たちであり、瑠璃の父や文乃の夫のような、見返りを求めず私財をなげうった市井の人々でもあるのだ。
瑠璃は勾玉をそっと胸に押し当てた。
自分もいつか悠真が迎えに来る日まで、この町の光であり続けたい。
今の自分にできることはたいしたことではないかもしれない。
でも、その小さな光を胸に灯し続けることが何よりも大切なことなのだと、今の瑠璃には分かっていた。
町の再生の兆しとともに、瑠璃の心は静かな希望で満たされているのだった。
と、目抜き通りが急に騒がしくなった。
道行く人々の視線が空へ向いている。
「何かしらね」と、文乃がガラス扉を開けた。
そこへ、新聞売りの少年が新聞を盛大にばらまきながら駆け抜けていった。
「号外だよ、号外。坂巻家の不正発覚!」
文乃は宙を舞う新聞紙をつかんで、店に持ち込んで広げた。
隠し銀山による不正蓄財と、鉱毒事件の真相、中央政界への闇献金。
小林の裏付け調査ですべてが明るみに出て、すでに政界では大臣級の大物が何人も告発されているという。
そして、そのころ、坂巻の館には帝都から派遣された法の執行官たちが到着していた。
「坂巻七三郎、脱税の疑いで逮捕する」
七三郎の背は屈辱で曲がり、口髭が震える。
隠し銀山は将一郎に爆破させ、裏帳簿は燃やしたが、後ろ盾となるはずの中央政界のお偉方が自白したとあっては、もはやこれまでだった。
「鉱毒事件等の余罪については帝都にて取り調べる」
七三郎は抵抗する気力もなく、ただ首を振ってつぶやいた。
「トカゲの尻尾として切り捨てられるくらいなら、もろともに毒を食らうまで」
後ろ手に手錠をかけられた七三郎が館から連れ出されると、集まっていた野次馬から石が投げつけられた。
「おまえのせいだったのか!」
「如月の旦那に謝れ!」
動員された地元の巡査が野次馬を怒鳴りつけ、投石はやんだが罵声は収まらない。
そんな喧噪の中で車に乗せられた七三郎は、執行官が手にしたものを見て驚愕の表情をあらわにした。
「そ、それは……」
七三郎が闇の一族と交流するために使っていた巻物だった。
執行官は無表情で運転手に合図し、車を出させた。
「そこまで調べが進んでいたとは」
「おまえは人の手に及ばぬ領域に足を踏み入れた。帝都におわす恐れ多き御霊はすべてをお見通しだ」
「なるほど。つまりあなたがたもそちら側の存在……」
「深入りはするな、と言っておく」
「仰せの通りにいたしましょう」
七三郎は穏やかな笑みを浮かべながら、醜い形相で罵声を浴びせる沿道の民衆を眺めていた。
一方、月影連隊本部では坂巻将一郎が司令官に呼び出されていた。
「坂巻少尉、参りました」
「よし、入れ」
司令官室の扉を開けると、連隊所属将校の他に、黒い軍服を着た将校たちが並んでいた。
この制服は帝都で見た覚えがある。
――近衛騎士団?
黒服将校の一人が踵を鳴らしながら近づいてくる。
「坂巻将一郎、貴殿の帝都士官学校における不正が発覚した。よって直ちに少尉の階級を剥奪する」
黒服将校に両側から挟まれ、肩から階級章が剥ぎ取られる。
はずみで金ボタンが一つ弾け飛び、鈍い音を立てて床に転がった。
「なお、当地における貴殿の行動についても、職権濫用の疑いで調査がおこなわれている」
「そのような覚えはありません」と、将一郎は毅然と答えた。
「月影大社における発砲、隠し銀山の爆破。これらはすべて軍令に基づく作戦行動ではなかったことが当事者の証言により明らかになっている。取り調べは帝都にておこなう。反論があれば軍事法廷にて弁明せよ」
「坂巻君」と、司令官は横を向いて煙草に火をつけた。「軍人たるものの身の処し方については分かっているだろうな」
将一郎は唇を噛んでうつむいた。
壁に向かって煙を吐き出すと、司令官はつけたばかりの煙草を灰皿に押しつけた。
「もっとも、君は士官学校では何も学ばなかったようだがね」
居並ぶ将校から侮蔑的な失笑がこぼれる。
両腕をつかまれた将一郎は屈辱的な扱いに震えながら連行されていった。
その夜、闇に沈んだ坂巻家では、二つの人影が息を潜めていた。
彩花と美津子だ。
現金や宝石などの財産をかき集め、夜になるのを待って逃亡を図ろうとしていたのだ。
「遠慮なんかするんじゃないよ」と、美津子は麻袋の口を広げた。「持てるだけ持ち出すんだよ」
額に汗を浮かべながら彩花も鼻息が荒い。
「もともとは如月家の財産だったんですものね」
「そうだよ。あの坂巻のジジイがズルして私たちから奪い取ったんだ。だから盗むんじゃない、取り返すだけなんだよ」
「お金さえあれば、なんとでもなりますものね、お母様」
身勝手な理屈で欲を正当化しながら、二人はあっという間に袋をいっぱいにして外へ忍び出た。
豪華な着物と華麗な洋服をまとった奇妙な泥棒は町外れに向かってそっと姿を消したのだった。
翌日、栄華を極めた坂巻家の没落劇で町は噂で持ちきりだったが、瑠璃は外へ出ずに、文乃と一緒に月光堂にいた。
さんざん陰口をたたかれていたのに、急な手のひら返しに戸惑うばかりだったし、またいつ風向きが変わるか分からない。
今はまだ報道が出ただけで、正式な取り調べや裁判の結果が出るのはまだまだ先のことだろう。
人の心の移ろいやすさほど怖いものはない。
父の死から今日まで、ずっと思い知らされてきたのだ。
「でも、瑠璃ちゃんのお父さんもきっと喜んでいるわよ」
文乃のつぶやきに瑠璃は曖昧にうなずいた。
「そうだといいですけど」
「小林さんのおかげね」と、文乃が笑う。「若さだけかと思ってたけど、なかなかやるじゃない」
帝都から遠く離れた月影町にも、ようやくデモクラシイの風が吹き始めたようだった。




