第3章 月下の誓い(3-1)
瑠璃が土間で朝食を作っていると、小林が目を覚ました。
「ここは?」と、重たいまぶたをこすりながら体を起こす。
自分の下宿とは違う光景に、寝起きで理解が追いつかないらしい。
黒い霧の集団に襲われた後、気絶していた小林を悠真が背負って瑠璃の家まで運んできてくれたのだ。
その後、悠真は消えてしまったが、その際に、瑠璃はたずねたのだ。
『また会えますか?』
『光の衣装をまとえば分かる』
恐ろしい体験をした後なのに、その優しい声に癒やされ、昨夜は安心して眠ったのだった。
「おはようございます。目が覚めましたか」
手を止めて声をかけると、小林が跳ね起きた。
「え、瑠璃さん! ここは瑠璃さんの家ですか?」
「狭くて申し訳ありません」
「いえ、僕の下宿と変わりませんよ」
とっさに言いつくろっているが、部屋を見回した小林は唖然とした表情で黙り込んでいる。
無理もない。
鶏小屋にすり切れた畳を敷いただけと言ってもいいようなひどい住まいなのだ。
「ここにはお一人でお住まいですか?」
「いつもは継母と義妹と三人でしたけど、坂巻家に移ったので」
「ああ、そうでしたね」
「朝ご飯できましたよ」
「ああ、それはすみません」
「こんなものしかありませんけど」
はにかみながら瑠璃はちゃぶ台を出して朝食を並べた。
ほとんど雑穀の飯と漬物、それと薄い汁物だ。
それでも小林は大げさにはしゃいでみせる。
「いやあ、瑠璃さんの作ったものなら、何でもごちそうですよ」
早速二人は食事を始めた。
「これはうまいなあ」と、小林は飯をかき込む。「朝から炊きたてのご飯なんて、一人暮らしだと贅沢ですからね。この町に来て、初めてですよ」
わざとらしいほど声を張る小林が、汁物をすすってつぶやく。
「朝ご飯の匂いで起きるなんて、なんだか夫婦みたいだなあ……なんてね」
「えっ、なんですか? 麩は入ってませんけど」
「いえ、なんでもないです。全部うまいなあって」
耳を赤く染めながら小林は首をひねった。
「それにしても、僕は一体、どうしてここに?」
「昨夜のこと、覚えてないんですか?」
「料亭を出て、黒い霧に襲われたところまでは覚えてるんですけど、その後、どうなってしまったんですかね」
瑠璃は悠真のことは黙っていることにした。
「小林さんが追い払って、それからここまで送ってきてくださったんですよ」
「そ、そうなんですか」と、額を押さえて頭を振る。「何も覚えてないな」
「ここまで来て力尽きたみたいで、泊まっていってもらったんです」
「それはまた、大変申し訳ないことで」
「いえ、こちらこそ、私のために頑張ってくださってありがとうございました」
「いやあ、僕なんかでお役に立てたのなら、あは、あはは……」
実際のところはすぐに気絶して足手まといだったわけで、記憶にないのも当然だ。
薄々気づいているのか、小林もばつが悪そうであまり細かく聞き出しにくいらしく、なんとかごまかせたようだ。
食べ終わった小林の茶碗にお湯を注ぐと、漬物を浸して飲みながらほうっと笑顔になる。
「そういえば、瑠璃さん、あの衣装は月光堂に預けてありますよ」
「そうなんですね。よかった」
瑠璃は悠真の言葉を思い浮かべて安堵の息をついた。
「それで、こんな物を拾ったんですけど」
小林はひしゃげた銃弾をちゃぶ台の上に置いた。
「兵隊は鬼に向かって発砲した。でも、あの衣装が銃弾を止めた。あの衣装は一体何なんですか」
お湯を飲みかけた瑠璃の手が止まる。
「わかりません」と、両手で茶碗の湯を揺らす。「神紋が織り込まれているのですから、神聖なものなのでしょう」
「神のご加護だと言うんですか」
うまい説明などまるで思いつかない。
黙り込む瑠璃に、言葉を選びつつ小林の質問が続いた。
「あの鬼は何者なんでしょうね。神楽殿で彩花さんに火をつけたり、黒い霧で僕らを襲ったり、何が目的なんでしょう」
「えっ」と、思わず叫んでしまった。「昼はともかく、夜中に襲ってきたのは女の人ですよね」
「瑠璃さん、何を言ってるんですか。襲ってきたのは全員男だったじゃないですか」
「全員って」と、瑠璃は息をのんだ。「どういうことですか?」
「いや、それを聞きたいのは僕の方ですよ」と、声を張り上げた小林が頭を下げる。「いや、興奮してすみません。昨夜襲ってきた連中は黒い覆面をしていましたけど、首領だけはあの鬼の顔をさらしていたじゃありませんか」
瑠璃は困惑するしかなかった。
本人が霧島沙夜と名乗っていたし、女性らしい妖艶な香りまで漂わせていた。
小林のような若い男性なら絶対に間違えることなどないだろう。
それを男と主張するのはなぜなのだろうか。
「僕も月光堂であの男に会ってますけど、ただ者じゃないですよね。あのときはまさか鬼だとは思わなかったけど、昨夜襲ってきたときは背中に角みたいな炎を背負っていたじゃありませんか」
確かにそれは悠真の姿だが、小林は気絶していて、見ていないはずだ。
もしかして、小林は沙夜の幻術で、男だと思わされているのではないだろうか。
黒い霧を操るくらいだから、それくらいのことはやるにちがいない。
ただ、自分自身が遭遇した事件に興奮している小林には、いくら説明しても納得してはもらえないだろうし、何か隠しているのではないかと疑われるとしか思えない。
瑠璃は徒労感にため息をつくしかなかった。
小林は背筋を伸ばして瑠璃をまっすぐに見つめる。
「瑠璃さん、神楽殿の事件で町の人々はあなたと鬼の関係を疑っているんです。誤解を解かないと、この町にいられなくなりますよ」
「誤解って、そんな」
「それだけじゃない。月光堂の橘さんにも迷惑がかかる」
「文乃さんに……」
――そうだ。
このままでは自分に関わる人をみな道連れにしてしまう。
世話になった人に迷惑をかけるわけにはいかない。
私は結局いつもひとりぼっちなんだ。
『あんたこそ、正真正銘の疫病神じゃないの?』
彩花の罵声が脳裏に浮かぶ。
自分がこの町にいるとみんなに迷惑がかかる。
いつの間にか背中が丸くなっていた。
瑠璃は膝に手をつき、背筋を伸ばして顔を上げた。
小林が丸眼鏡の奥で目を細める。
「実はね、僕は一つの仮説にたどりついたんです。瑠璃さん、催眠術ってご存じですか?」
「いいえ」
「人を眠ったような状態にして、心を操る術のことです。見世物なんかでよくあるんですけど、あの鬼はそれを大々的に使って人々を惑わせているのかもしれない。だから、鬼など最初からいない。我々の心が作り出した幻想だと、そういう線で記事をまとめれば町の人を納得させられるかもしれません。そうすれば瑠璃さんへの誤解も解けますよ」
あくまでも小林は論理や科学で説明をつけようとしているらしい。
それならば昨夜の鬼の姿も幻術だと気づいてくれればいいのに、今一歩そこまでは至らないらしい。
「筋は通ってますけど、そううまくいくでしょうか」
ため息をつく瑠璃に、小林が首を突き出して微笑む。
「心配しないでください。とにかく、僕は月影日報と協力して注意喚起の記事を書きますよ。奴らの目的は分からないけど、これ以上黒い霧に町の人々を襲わせるわけにはいかない。ペンは剣よりも強し。みんなの力でこの町から鬼を追い出せばいいんですよ」
「それは……」
どう考えても逆効果だ。
黒い霧と戦う悠真を追い詰めてしまう。
しかし、小林を説得する方法が思いつかない。
否定すればするほど、新聞記者としての探究心をあおってしまうだろう。
瑠璃の落胆など気づく様子もなく、室内を見回した小林がぴしゃりと額をたたく。
「ああ、これはしまった!」
「どうしたんですか?」
「鳥打ち帽を落としてきたらしい」
「あっ」と、瑠璃は口に手を当てた。
悠真に背負ってもらったときに、帽子のことはすっかり忘れてしまっていた。
「探してこない」と、小林が立ち上がる。「やっぱりあれがないと新聞記者らしくないでしょう」
「まるであの帽子が小林さんの本体みたいですね」
瑠璃の精一杯の軽口だった。
「実は、そうなんですよ」と、小林も真面目な目をして丸眼鏡をクイッとあげる。「どうもごちそうさまでした。それじゃ、帽子を探しに行って、その足で月影日報に記事を持ち込みますから。さあ、今日も忙しくなるぞ」
――私も、こうしてはいられない。
こうなった以上、もう後へは戻れないのだ。
勢いよく駆けだしていく小林を見送りながら、瑠璃も決意を固めていた。




