(2-7)
◇
連隊本部に連行された瑠璃は監視のついた小部屋に入れられたが、尋問はなく、扱いは丁寧だった。
日が暮れたころ、監視の兵が入ってきた。
「保証人として母親が迎えに来るそうだ。出ろ」
美津子が来てくれるというのだろうか。
ありがたいよりはむしろ、余計な手間をとらせたと罵倒されるのではないかと、不安が重くのしかかる。
両脇を兵士に挟まれながら乗用車の後部座席に押し込められる。
「あの……母は?」
「黙れ。ついてくれば分かる」
自動車に乗ること自体初めての瑠璃は、後方へ流れていくガス灯の速さに驚きながら美津子への言い訳を考えていた。
ぶたれるくらいですめばいいのだけど。
むしろ、縁を切ってくれないだろうか。
文乃のように女一人が生きていくのは難しいが、それでもおびえながら暮らすよりはましだろう。
月影大社周辺では提灯やかがり火で昼のように明るく、鬼騒動の影響も薄れて祭りの賑わいが戻っているようだった。
車は町外れに向かっている。
――どこへ行くのだろうか?
違う種類の不安が沸き起こる。
月影山を見上げる池の畔にたたずむ『月見楼』という料亭に到着した。
古びた瓦屋根と白壁の建物は、帝都の流行とは一線を画す趣あるたたずまいを誇り、亡き父も役人をもてなす場として利用していたことがある。
兵士たちは本館に入らず、暗い庭を横切って池に突き出た離れへと瑠璃を連れていく。
明かりのこぼれる障子越しに兵士たちが声をかけた。
「連れて参りました」
「ご苦労」
中から返ってきた声には聞き覚えがある。
兵士たちにうながされ中に上がると、床の間を背にして座っていたのは軍服の将一郎だった。
螺鈿装飾の施された座卓の上には酒と肴が並べられ、赤ら顔で鯉の洗いをつついている。
「おまえたちは下がってよろしい」
「はっ。失礼します」と、兵士たちは敬礼して去っていく。
一人残された瑠璃は畳に上がったところでもじもじと立っていた。
「遠慮するな。こっちへこい」
「あのう、母は?」
「そなたのために出向くのは面倒だから好きなようにしてくれと言っていたぞ」
足をもつれさせながら立ち上がった将一郎は瑠璃の手を取り、座卓へと引っ張りこむ。
「酌でもしてくれ」
震える手で燗徳利を傾けると、酒がこぼれる。
「すみません」
「なんだもったいない」
将一郎は瑠璃の手をつかんで指先に付いた酒をなめようとした。
「おやめください」
「無礼を働いておいて、やめろもないだろうが」と、将一郎は盃を突き出す。「おまえも飲め」
「いえ、わたくしは……」
顔を背ける瑠璃に酒臭い息を吐きかけながら将一郎は肩を抱いた。
「帝都の白粉臭い女とは遊び飽きた。おまえを俺の妻にしてやろう」
「彩花さんがいらっしゃるではありませんか」
目を丸くした瑠璃に将一郎の顔が迫ってくる。
「ふん、あんな見栄っ張りで面倒な女よりそなたの方が良かったんだが、無理なら姉妹そろって俺の女になれ。あいつはここに置いて、おまえは帝都に連れていっていい暮らしをさせてやる。どうだ?」
力任せに押し倒され、将一郎の手が着物の裾を払いのける。
「なっ……何をなさるのですか」
「おまえの体に尋問しようというのだ。何をするかも知らぬ娘を力尽くで味わうのも一興というもの」
「人を呼びます」
「人払いはさせた。池の向こうに声など届かんぞ」
「離してください」
かろうじて突き飛ばしたものの、座卓に背中をぶつけた将一郎が裾にしがみつく。
「きさま、許さんぞ!」
激高した男は瑠璃の細い体にのしかかり、拳を振り上げた。
――やめて!
ぎゅっと目を閉じた瞬間、瑠璃の脳裏に悠真の顔が浮かんだ。
――助けて!
と、そこへ、外から呼ぶ声がした。
「少尉殿。少尉殿はおられますか」
「なんだ、邪魔をするな」
「少尉殿」
「だから、何だと言っておる!」
将一郎は拳を握りしめたまま立ち上がり、ふらつく脚で倒れかかるように障子に歩み寄ると、力任せに左右に開いた。
「ああ、やはり、少尉殿はこちらでしたか」
鳥打ち帽に手をやり、人なつこそうな顔で小林が中をのぞき込んでいる。
「なんだ、記者か。何事だ」
威厳で取り繕う相手の横から小林が勝手に入り込んできた。
「実はですね、善は急げで、本日のお手柄についてお話を聞かせていただきたくて。帝都のお偉方にも少尉殿のご活躍をお耳に入れたいじゃありませんか」
「そ、そうか……」と、気勢をそがれた将一郎は真っ赤な鼻をかいて口ごもった。「だが、今日はもう遅い。明日、連隊本部に来てくれれば時間をとろう」
「早いほうが良かったんですが、しかたがありませんなあ」と、小林がようやく気づいたような表情を見せる。「あれれ、なあんだ、誰かと思ったら瑠璃さんじゃありませんか」
すがるような目をする瑠璃に向かって、小林は大根役者の口調で歩み寄る。
「へえ、こんなところで給仕もなさってたんですか。なるほど、月光堂のお給金だけじゃ足りないんですね。安月給っていうのは大変ですねえ」
「ええ……まあ」
さらに小林は乱れた卓上の酒と料理に目をやり、大げさに手を広げた。
「でも、お酌が下手なんじゃ、こんな格式の高いお店、すぐに首になるんじゃありませんかねえ」
「もう、いい」と、将一郎が両手の拳を打ちつけ、座布団に座り込む。「明日、連隊本部へ来い。いつでも取材に応じてやる」
「それはどうもありがとうございます。では、また出直してまります」
鳥打ち帽をくるりと回してぺこりとお辞儀をした小林は瑠璃に手を差し伸べた。
「もう遅いですから、送っていきましょう」
意図を理解した瑠璃はすぐに立ち上がった。
「はい。お願いします」
「では、少尉殿、失礼いたします」
離れを出ていく二人を止めることなく、将一郎は乱暴に酒をついであおっていた。
真っ暗な庭を抜け、料亭を出たところで、小林は帽子を取って頭を下げた。
「先ほどは失礼なことを申し上げてすみませんでした。力ではかなわないので、ああ言って坂巻少尉の注意をそらすしかなかったんです」
「いいえ、おかげで助かりました」
二人は月を背にして、虫の音に包まれた夜道を並んで歩いた。
「でも、悔しいなあ。本当のことを書いても上に揉み消されるだけですよ。あんな卑怯な男を持ち上げる記事を書かなくちゃならないなんて。何がペンの力だ。情けないですよ」
「そんなことありません。小林さんの記事はいつかきっとみんなの心に届きますよ」
「へへへ」と、小林は帽子を被り直し、気を取り直したように笑う。「だといいんですけどね」
少し歩いたところで、小林が真剣な顔つきになって語り始めた。
「僕はね、帝都で学生だった頃もあんな軍人をよく見かけましてね。やつら、偉そうに威張ってるくせに裏ではずるいことばかり。だから、それを暴いてやりたくて新聞記者になったんですよ」
「そうだったんですか」
「強い者が弱い者を踏みにじるなんて、そんな世の中は間違っています。瑠璃さん……」
「はい」
「だから、ぼ、僕が瑠璃さんを今の境遇から……」
そんなぎこちない会話を交わしていると、瑠璃の胸元で勾玉が光を放ち始めた。
「瑠璃さん、それ何ですか?」
「えっと、あの……月の光で」
と、ごまかそうとしたところで、月を背に歩いていることに気づいて瑠璃はくるりと振り返った。
月影山から吹き下ろしてきた風が二人の間を吹き抜けていく。
夏の終わりとは思えないほど冷たい風に思わず瑠璃は小林の背に隠れた。
「ははは、夜はもう冷えますね」
いつのまにか虫の音が聞こえない。
月も雲に隠れて完全な闇に包まれる。
だが、勾玉だけは淡い光を放っている。
小林が丸眼鏡を上げて目をこらす。
「な、何だあれは……?」
闇の奥が不自然にうごめいていたかと思うと、暗闇よりも深い黒い霧が流れてくる。
「ま、まさか……」と、小林が息をのむ。「昼間の鬼の仕業か」
黒い霧の噂を追っていた記者だけに観察は冷静だが、判断は短絡的だった。
小林は瑠璃を庇って腕を広げるが、黒い霧はうねりながら二人の背後まで回り込み、周囲を隠してしまった。
前方から赤い光が蛍のように宙を漂い近づいてくる。
それに呼応して瑠璃の勾玉が脈打つように点滅を始めた。
霧の中から覆面をかぶった黒装束の影がいくつも浮かび上がり、足音もなく円を描いて二人を取り巻く。
月影山の夜道に迷い込んだかのようで、小林の額に汗が流れる。
正面の黒装束から女の香りが漂う。
「誰だ、おまえたちは!」
背後の瑠璃を守ろうと小林は鳥打ち帽を握り潰し構えた。
「こ、これでも僕は柔道を習ってたんだぞ!」
「ふふっ、あんたに用はないよ」
「瑠璃さんに手を触れたらただじゃ……」
小林の虚勢もそこまでだった。
女が人差し指を突き出した途端、膝を折って崩れ落ちる。
「ふああ……」
「小林さん、しっかり!」
気を失った小林は瑠璃に抱き留められていた。
乳を吸って安らぐ赤ん坊だ。
「そんなの放っておきな」と、女が手を振ると、丸太のように小林の体が転げ落ち、黒い霧に飲み込まれた。
「やめて!」
叫んだ瞬間、勾玉がまばゆい光を放ち、黒い霧を一瞬押し返す。
「ほう、さすがは九条に選ばれた娘だね。その勾玉、ただの飾りじゃないらしい」
――九条さんを知っている?
覆面を半分下ろした女の眉がわずかに上がる。
「あたしはね、闇月の宗主様に仕える霧島沙夜」
「闇月の宗主……?」
「九条悠真は裏切り者。あんたがあいつの光となる前に、悪いが消えてもらうよ」
沙夜は一歩近づき、瑠璃の胸に人差し指を突きつける。
「その勾玉をよこしな」
とっさに握りしめたが、心臓が破裂しそうなほど鼓動し、体が熱く震える。
――逃げなきゃ。
でも、足が動かない。
小林だって置いていけない。
沙夜の瞳が針で縫いつけるように瑠璃の心を闇に押さえつける。
じりじりと間合いを詰めた黒装束の男たちが、勾玉に手を伸ばす。
――助けて……誰か……。
ホウ、ホホウ……。
願った瞬間、闇の中で梟の鳴き声が響いた。
ホウ、ホホウ……ホウホウ。
ホホウ、ホウ……。
四方八方から呼応し、黒い霧が一瞬揺らぐ。
「梟ごときに惑わされるんじゃないよ」
沙夜が乱れた隊列に活を入れるが、その瞬間、闇に白い刃が飛び交い、黒い霧を切り裂いた。
それは梟の翼だった。
上空から舞い降り、低空から突き上げ、旋回し、白い羽を降らして闇に溶ける。
崩れた一角から、黒い三つ揃いのスーツに身を包んだ長身の男が姿を現す。
その背中には角の幻影が燃えさかっていた。
――九条さん!
「失せろ、闇ども」
悠真の声は地鳴りとなって一帯を震わせ、黒装束の男たちを怯ませる。
「ふん、ようやく現れたね、裏切り者が」
沙夜だけは笑みを深め、赤い勾玉を握りしめる。
「鬼のくせに月神と同化しようなんて、滑稽だね。闇が光を気取るのかい?」
「黙れ」
悠真の瞳が敵の赤い光を反射し、背後の角の幻影が昇竜のごとく舞う。
「瑠璃は俺の光だ」と、包み込むように肩を抱き、沙夜を睨む。「おまえのような闇の使者に触れさせるわけにはいかぬ」
黒い霧に覆われ危機に直面しているにもかかわらず、悠真の腕の中で、瑠璃は安らぎを感じていた。
太陽の光を浴びて闇を照らす月。
月神と闇の対立。
あの森での出会い、冷たくも優しい唇の感触、そなたを待っていたという言葉。
太古の神話と瑠璃が受け継ぐ血が融合し、すべてが繋がる瞬間だった。
彼は私のために、そして私はこの方のためにここにいる。
大丈夫、二人一緒なら怖くない。
私はあなたの光になる!
瑠璃の体内で血が沸騰し、覚醒した血脈の記憶が無限の力を解放する。
勾玉が鼓動に共鳴し、頭の中が白くかすみ、体が軽くなっていく。
――これは……何?
勾玉がまばゆい光を放ち、黒い霧が飛散する。
自分自身の輝きに視界が揺らぎ、瑠璃の意識は現実と夢の狭間を浮遊していく。
熱と光に身を委ねた瑠璃の瞳は純白の輝きを宿す。
「私は月下の血を受け継ぐ光の化身」
瑠璃の唇からこぼれた言葉は、自身の声とも、遠い神話の声ともつかない響きだった。
確かな決意を帯びた声は確実に闇を刺すが、沙夜が嘲笑う。
「まだまだだね。こんな光じゃ、闇は払えないよ」
言葉通り、沙夜が手を振ると黒い霧が一気に膨れ上がり、二人を飲み込む。
黒い霧の向こうで黒装束の男たちが襲う間合いを計ってじりじりと距離を縮めてくる。
悠真は瑠璃を背に庇いながら拳を握った。
「瑠璃、俺に力を与えてくれ。俺はそなたの光を映す鏡。月神の鬼士」
「悠真……さん……」
か細い声が漏れるが、力を制御できない瑠璃の意識はなおも朦朧とし、ただ悠真の背中にしがみつくだけだった。
沙夜の勾玉が赤く脈打ち、まるで生き物のように闇にうごめく。
「九条よ。その娘を引き渡し、宗主様の下へ戻れ」
「戯言を!」
踏み出した悠真の手が黒い霧を切り裂き、沙夜に迫る。
だが、沙夜の動きは素早く、闇に沈んだかと思うと、次の瞬間、瑠璃の背後に現れた。
「瑠璃!」
悠真が叫ぶが、沙夜の冷たい手が瑠璃の首を締め上げる。
「動くな、九条。動けば光を握りつぶすよ」
瑠璃の勾玉が抵抗するかのように光るが、沙夜の力に押され、その輝きは急激にしぼんでしまう。
「ふん、しょせん、こんなものか」
沙夜は唇にゆがんだ笑みを浮かべ、指先に力を込めた。
「終わりだね。もう二度と朝は来ないよ」
だが、次の瞬間、勾玉から閃光が爆散し、沙夜を石畳にたたきつけた。
一気に力を使い果たした瑠璃は石畳に膝をつき、荒い息で勾玉を握りしめた。
悠真が駆け寄り瑠璃を抱き上げる。
「大丈夫か、瑠璃」
「私は……何を……?」
意識が朦朧として、悠真の顔もはっきりしない。
「やってくれたね。まったく油断したよ」
うめきながら立ち上がる沙夜を悠真が血走った目でにらみつける。
その背中には角の幻影が火柱となって天を衝く。
「そなたの闇は、瑠璃の光に勝てぬ。去れ!」
「チッ、覚えてなよ、九条。この娘は必ず我々の手に落ちる。月神の呪縛を破るその日までに」
沙夜は舌打ちを残し、黒い霧とともに姿を消した。
赤い光が月影山の向こうへ飛んでいく。
黒装束の男たちも闇に溶け、黒い霧は風に流れ去っていく。
ホウ、ホホウ……ホウホウ。
ホホウ、ホウ……。
梟の声も次第に収まり、夜道は静寂を取り戻していた。
悠真は瑠璃の頬を優しく撫でた。
「大丈夫か?」
「はい……なんともありません」
意識は取り戻したものの、瑠璃の声は弱々しく、光をなくした瞳はまだ虚ろだった。
彼女を見つめる悠真の目には鬼の怒りと慈愛の光が交錯していた。
「俺はずっとそなたを待っていた。俺の光となってくれるそなたをずっと探していたのだ」
悠真が静かに微笑み、瑠璃の手を握ると、孤独な者同士の魂が融合し、清浄な光が二人を包んだ。
夜は更け、満点の星が月影山の稜線をくっきりと空に描く。
瑠璃の胸の勾玉は、まるで彼女の安らぎと共鳴するように、静かに光を放ち続けていた。




