(2-6)
◇
翌日、祭り本番に浮かれた子どもたちの歓声で目を覚ますと、すでに日は高く、肌襦袢一枚の体は汗まみれだった。
めまいはないものの、血の巡りが追いつかず、床に手を突きながらゆっくりと体を起こす。
「あら、お姉様、お目覚め?」
いるはずのない思わぬ声に、瑠璃は顔を上げた。
「あ、彩花さん、どうして」
「そんなこと、どうでもいいわ。それより」と、腕を広げてくるりと回る。「これ、似合うわよね」
――あっ!
あろうことか、彩花は瑠璃の着物をまとって満面の笑みを浮かべていた。
「それは私の……」
「だって、そこに脱ぎ捨ててあったんだもの。いいでしょ」と、しゃがんで瑠璃の目をのぞき込む。「お姉様がこんな素敵な衣装を着ても似合わないわ。高貴な身分の私にこそふさわしいのではなくて?」
「神紋を穢してはいけません」
取りすがろうとする瑠璃を突き飛ばして彩花が立ち上がる。
「穢すって、どういうことかしら。まるで私が薄汚れているみたいな言い分じゃない」
「そういうことではなくて」
「私は華族ですわ。高貴な身分が妬ましくて仕方がないのでしょうけど、血のつながらないお姉様とは関係のないことですもの。違いを受け入れてくださるかしら」
瑠璃が真剣に説得しようとすればするほど、彩花はその必死さをあざ笑う。
「私はね、ただきれいな着物を着たいだけなの。今時そんな馬鹿げた神話が理由になると思ってるなんて、ほんと、迷信深い人って困るわよね」
帝都から流れてきた美津子はもとから月影大社への信心がなく、この町で生まれ育ったとはいえ、その娘である彩花も神聖さを理解できないのだ。
「私はね、あんたみたいなみすぼらしい女が月影の御子なんてものに選ばれてたっていうのが気に入らないのよ。どうせ、そのときは親が金持ちだったからなんでしょうけど、その財産だって、お母様が後妻に入った途端に没落しちゃって私たちはいい迷惑よ。神様、神様って、あんたこそ、正真正銘の疫病神じゃないの? ねえ、お姉様」
彩花は着物をまとったまま表へ出て行こうとする。
「どこへ行くの?」
「決まってるでしょ。大社にお参りに行くのよ」と、うっとりとした笑みを浮かべる。「ちょうど月神の御子が舞を奉納する頃合いだから、私がこの着物で舞台に上がったら、神の使いが現れたかと皆がひれ伏すでしょうね」
「いけません、そんなこと」
「指図しないでくださる、お姉様」
止めようとしたが肌襦袢では表に出られず、いつもの着物を羽織っているうちに、彩花は表通りへ出て待ち構えていた人力車に乗り込んでしまった。
祭りの客でごった返す通りが左右に開き、彩花を乗せた人力車がどんどん小さくなっていく。
瑠璃は懸命に追ったが、途中、いやな噂を耳にした。
「新聞見たかよ。黒い霧だってさ」
「鬼の仕業なんだろ」
「まったく、祭りなのに、縁起でもねえな」
鳥居の前までたどり着くと、神楽が聞こえてきた。
かつて月神の御子として自身も舞った音曲だが、懐かしさに浸っている場合ではなかった。
「瑠璃さん」
呼ばれて振り向くと小林記者が鳥打ち帽を振っていた。
「彩花さんは?」
「ああ、今さっき、ものすごくきれいな着物で拝殿の方へ行きましたよ」
参道の人混みをかき分けなんとか進むと、拝殿脇の神楽殿では今年選ばれた月神の御子が舞を奉納している最中だった。
参道を埋め尽くす観衆の視線を背に、純白の神聖な衣装に身を包んだ彩花が銀糸の神紋をきらめかせながら神楽殿へと進み出た。
帯に結ばれた小さな鈴が、彼女の歩みとともに音を鳴らすが、その音は清浄な音曲を乱すようにざらついていた。
参拝客の間からざわめきが広がり、驚きと困惑の視線が一斉に彼女に注がれる。
「神紋をまとったあの子は誰?」
「いやねえ、なんなのよ、あれ」
「月神の御子でもないのに、成金ね」
ささやきはすぐに嘲笑に変わった。
彩花の顔に一瞬動揺が走るが、それを押し隠すと、顎を高く掲げて勝手に神楽殿の階段を登り始めた。
純白の衣に織り込まれた銀糸が輝き、まるで天女が舞い降りたかのような幻想的な美しさを放っているが、その美しさとは裏腹に、彩花の瞳には高慢な光が宿り、参拝客を見下ろすような冷笑が口元に浮かんでいる。
瑠璃は階段の下から彩花にすがりついた。
「彩花さん、降りて。神紋を穢してはいけないの。どんな災いが起こるか分からないのよ」
「没落したあんたはこれ以上落ちようがないんだから口出ししないで」
瑠璃を振りほどいた彩花は階段の頂点でくるりと振り返る。
「私は神様なんか信じないけど、この私ほど神紋を身につけるのにふさわしい人間はいないでしょう。華族の血を引く私こそが、この町の光、人々にあがめ奉られるべき存在なのよ」
観衆の視線を一身に浴び、まるで舞台の主役になったかのように彩花は胸を張った。
だが、その傲慢な姿に参拝客の笑い声はさらに大きくなり、野次が飛び交い始めた。
「神聖な場を汚すな!」
「おい、成金女、引っ込め!」
「鬼に食われちまえ」
顔を真っ赤に染めた彩花は観衆を睨みつけ、羞恥と怒りで唇を震わせながら声を張り上げた。
「黙りなさい! あなたたち平民にはこの私の尊さが分からないようね。この衣装は私にこそふさわしいのよ!」
彩花の言葉に呼応するように衣装が輝き始める。
しかも、それはまるで太陽のように、自ら強烈な光を発しているのだった。
「ほら、ご覧なさい」と、彩花が腕を広げた。「この輝きが何よりの証拠よ! 私が神に選ばれた証拠なのよ!」
あまりのまぶしさに、観衆が手で目を覆ったそのときだった。
神楽殿の奥に安置された丸鏡が突如として眩い光を放ち始めた。
白銀の輝きが矢のように彩花を貫いたかと思うと、彼女の衣装から真っ赤な炎が上がり、あっという間に全身を包み込んだ。
「うわっ、燃えてる!」と、観衆から悲鳴が上がる。
「あ、熱い……苦しい」と、彩花は胸を押さえ、顔をゆがめて舞台の上で膝をついた。「い……息が、できない。助けて!」
炎は彩花を締め上げるように渦巻き、神楽殿の天井をなめるように広がっていく。
だが、不思議なことに、観衆に熱は伝わらず、衣装も建物も焦げる様子はない。
「彩花さん」
「だめだ、瑠璃さん、下がって」
助けに上がろうとする瑠璃を小林が引き留める。
「でも、助けないと」
と、観衆からさらなる悲鳴が上がり、皆が一斉に鏡を指さす。
「な、なんだあれは!」
丸鏡の表面に波紋が浮かび、光を切り裂いて長身の男が現れる。
黒い三つ揃いのスーツに身を包み、背後に炎のような角の幻影を従えたその姿は、森の奥で瑠璃が出会った九条悠真その人だった。
神楽殿の天井に届くほど背が高く、体をぴっちりと包み込む洋装がかえってその下に隠された肉体の迫力を強調している。
瑠璃はハッと息をのんだ。
やはりあの人は神様の使いだったんだ。
――でも、なぜ鬼の姿に?
確かにあのときも角の幻影を見たような気がする。
だが、親切で心優しき紳士だったのではないのか。
「神罰だ、逃げろ!」
慌てふためいた月神の御子や音曲奏者が舞台から転げ落ち、逃げ惑う観衆で周辺は大混乱に陥った。
「鬼だ!」
「黒い霧の噂は本当だった!」
観衆も我先にと参道を駆けて出口に殺到し、将棋倒しとなった女性や子どもから悲痛なうめきが上がる。
観衆が落とした新聞紙を拾い上げた瑠璃は見出しを見て絶句した。
《黒い影は鬼の仕業か》
――違う、そんな人じゃない。
だが、突如姿を現した鬼を見れば、誰もが記事を信じるだろう。
実際、怒りの炎を背負ったその姿は、瑠璃ですら恐怖を覚え近寄ることができなかった。
悠真の瞳は、深淵のような闇と月光の輝きが交錯し、魂の奥底まで見透かすようだった。
彩花のそばへ歩み寄った悠真は冷たい瞳で見下ろしながら手をかざす。
瞬間、炎は勢いを増し、彩花は喉をかきむしってもだえ苦しむ。
「そなたのような者に、光の衣をまとう資格はない」
その声は神楽殿に落ちた雷鳴であった。
もはや周囲に人はいない。
小林もいつの間にかいなくなっていた。
茫然と立ち尽くしていた瑠璃は、その雷で正気を取り戻し、彩花に駆け寄った。
「しっかりして」
炎がまとわりつくが、熱くはなく、顔にかからなければ息はできるようだ。
おびえた瞳で瑠璃を見上げ、彩花が震える手ですがりつく。
そんな弱々しい姿を見せるのは初めてのことだ。
「く、苦しい……お姉様、たす……けて」
涙をこぼしながら瑠璃は鬼に向かって土下座した。
「お願いでございます。おやめください」
悠真の低い声が天から降ってくる。
「瑠璃よ、俺が待っていたのはそなたのはずだ」
「その通りでございます」
「ならば、これはどうしたことだ」
「私が悪かったんです! 私よりも彩花さんの方がこの衣装にふさわしいと思って、着せてしまいました! どうか、お許しを!」
「それは本当か?」
「はい……私が、妹のために……」
瑠璃は彩花のために額を床にこすりつけた。
その義姉の姿を見た彩花は息も絶え絶えに声を絞り出す。
「そうよ、お姉様のせいよ。私は何も悪くないわ。お姉様が着ろって言ったのよ。だって、私は高貴な華族なんだもの。当然でしょ!」
「彩花さん、なんてことを」
この期に及んでも本性をさらけ出す義妹の態度に打ちのめされながら、なおも瑠璃は悠真に許しを願った。
「お鎮まりください。過ちはすべて私のせいでございます」
「顔を上げよ」
厳しくも慈愛を感じる声に瑠璃は悠真を見上げた。
鬼の瞳は深い孤独と怒りを宿しながらも、どこか彼女を試すような柔らかな光を帯びていた。
その瞳を見つめ返す瑠璃の目からは涙が頬を伝って流れ落ちた。
悠真は軽く右手を振った。
すると、彩花を包んでいた炎が一瞬にして消え去り、彼女は咳き込みながら床に崩れ落ちた。
衣装は焦げ跡一つなく、彩花の体にもやけどはなかった。
だが、彼女の顔は恐怖に青ざめ、高貴な華族の誇りもどこかへ吹き飛んでいた。
「光の衣は、そなたのような心の穢れた者が着るものではない」
「なんですって!」
彩花は毛虫が這うように着物を脱ぎ捨て、瑠璃に投げつけた。
「こんなもの、もういらないわ! お姉様のせいで、こんな辱めを……!」
肌襦袢一枚になった彩花は舞台の上に落ちていた男物の羽織に飛びついた。
と、そこへ兵隊がなだれ込んできた。
「いたぞ!」
神楽殿の前に兵士が並び、銃を構える。
「将一郎様」
彩花が若き指揮官に駆け寄る。
通報を受けた将一郎が一個小隊を引き連れて出動してきたのだ。
「よいか、皆の者、月影連隊の誇りにかけて敵を討つのだ」
「お待ちください!」
純白の衣を胸に抱いた瑠璃が悠真の前に立ちはだかった。
「この方は黒い霧でも鬼でもありません。私に親切にしてくださった紳士です」
「どきなさい、瑠璃さん」と、功を焦る将一郎は聞く耳を持たなかった。「神域を穢し、人心を惑わす不逞の輩をかばうのならば、あなたも一緒に撃ちます」
「お願いでございます」
懇願する瑠璃に、ゆがんだ笑みを浮かべた彩花が声をかける。
「お姉様、謝るなら今ですわ。でないと、将一郎様は本当に撃ちますわよ。任務ですもの」
軍刀を抜き悠真に突きつけた将一郎が部下に命じた。
「幻術に惑わされるような月影連隊ではない。鬼だろうと悪霊だろうとかまうな。狙え!」
「隊長殿」と、兵士が声を上げた。「本当に女も撃つのでありますか」
「かまわん。撃て!」
ダダーン!
十数挺の銃が一斉に火を噴いた。
硝煙の臭いとともに灰色の煙が漂い、一転して沈黙に包まれる。
舞台の上では衣装を抱きかかえた瑠璃が立っていた。
兵士たちの間からざわめきが起こる。
――え?
瑠璃自身も何が起きたのか分からなかった。
十数発の銃弾を浴びたはずなのに、死んでいないし、どこも痛くない。
――悠真さんは?
振り向くと舞台には誰もいなかった。
奥に安置された丸鏡もただ鈍く光っているだけだ。
「消えたぞ!」
動揺した兵士たちが口々に叫ぶ。
「どこだ。どこへ行った」
「本物の鬼なのか」
「黙れっ!」と、将一郎が一喝する。「撃ち漏らしたのではない。我らの威光に恐れをなして敵は抵抗せず消え去ったのだ。治安出動の目的は達せられたということだ」
無理な解釈とは分かっていても、上官の命令は絶対だ。
銃を下ろし整列した兵士たちに、将一郎が命じた。
「あの女を尋問する。連隊本部へ連行しろ」
瑠璃は舞台から引きずり下ろされ、純白の衣装は地面にうち捨てられた。
銃を突きつけられながら参道を歩く瑠璃を見て、戻ってきた野次馬が噂をする。
「あれは如月のお嬢さんだろ」
「落ちぶれて鬼に魂を売ったのか」
「やだねえ。あんなふうになりたくないね」
小林も瑠璃に声をかけようとしたが、人波に阻まれて見送るしかなく、神楽殿の前に落ちている衣装を拾い上げた。
「なんだこれ?」
ひしゃげた銃弾がこぼれ落ち、石畳の上を転がっていく。
広げて確かめてみると、純白の衣装には穴一つ開いていなかった。




