(2-5)
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帝都から戻った美津子と彩花がかつては如月の家だった坂巻家の屋敷に移り、瑠璃は一人で粗末な家に取り残されたが、罵倒も虐待もない生活は孤独でもむしろ心は穏やかだった。
それが当然だと思い込んでいた日常が異常だったことをあらためて思い知らされたような気がして、障子の隙間から差し込む半月の光に、ほのかな希望を感じるのだった。
朝、月光堂に行くと、待ち構えていたように文乃がガラス扉を開けて迎え入れてくれた。
「昨日は勝手に帰ってしまってすみませんでした」
「いいのよ。小林さんから事情は聞いたから。それより、これ見て」
差し出された風呂敷包みは、月影大社の神紋と封印のせいか、光を放つような神聖さが漂っている。
小林のような外部の開化主義者には理解できないかもしれないが、この町で生まれ育ち、日々その恩恵に感謝しながら生活をしてきた者なら誰でも抱く神秘的な感覚であった。
「あの人が持ってきてくれたのよ。瑠璃ちゃんが言ってた、黒い服の人」
「森で親切にしてくださった方ですか」
九条悠真と聞いた名前を出しそうになって飲み込む。
人に教えてはいけない、知った人にも迷惑をかけるような気がしたのだ。
「体つきが人間離れしてるわよね。頭が天井についちゃうかと思ったわよ」
文乃はまるで男が目の前にいるかのように店内を見上げながら微笑んでいた。
神紋を使うということは、悠真が月影大社の関係者であることは間違いない。
しかも、たんなる神職ではない。
使用許可を出せる立場か、または神紋に象徴される存在そのもの……。
ますます謎は深まるばかりだが、瑠璃を名指しで贈られたのだから、着てみろということなのだろう。
「瑠璃ちゃん、これ、使って」
文乃は純白の肌襦袢を包みの隣に置いた。
「ありがとうございます」
「今日は前夜祭だから、月の光を浴びながら沐浴をするといいわ。それで、明日はお店もお休みだから、これを着て参拝してきなさいね。せっかく神様が呼んでくださったんだもの」
文乃の声にはいつになく重みがあった。
――神様が呼んでくださった。
大社と共に生きてきた月影町の人間にとって、それは決して冗談で口にできる言葉ではなかった。
夕方、仕事を終えた瑠璃は風呂敷包みを大切に胸に抱いて帰宅した。
脚のぐらつくちゃぶ台の上に置き、麻紐で吊された勾玉を外してその横に並べた。
前夜祭の喧噪も届かぬ路地裏の井戸から水をくんできて土間の盥に注ぎ入れる。
障子越しに差し込む淡い月の光が水面に広がり銀色の反射が瑠璃を照らした。
時が止まったかのように静寂に包まれた室内で着物を脱ぐと、骨と皮ばかりの体があらわになる。
年頃の娘らしさなどないその体を、瑠璃は月の光が宿る冷水で拭き清めた。
首筋に手を触れると、森の奥で出会ったあの黒い服の男――彼の鋭い眼差しと、冷たくも柔らかな唇の感触がよみがえってくる。
沐浴を終えた瑠璃は文乃にもらった肌襦袢をまとい、あらためて正座して風呂敷包みと向かい合った。
この期に及んでもまだ包みを解くことをためらっている。
封印の御札に指先が触れただけで心臓が小さく震えた。
自分にこの衣装をまとう資格があるのか、まったく確信はなかった。
だが、そのときだった。
傍らに並べた勾玉が淡く光を放ち、その光は神紋と呼応し、風呂敷の中身が輝き始めたのだった。
――これはそなたにこそふさわしい。
包みから男の声が瑠璃の心に直接語りかけてくるような気がする。
瑠璃は深く息を吸い、震える指で御札をそっと引き抜いた。
銀糸の飾り紐が解け、風呂敷が花弁のように広がる。
風呂敷の中から現れたのは、純白の衣装だった。
月影大社の巫女装束とも異なる、見たこともない清浄な着物だ。
生地は天女の羽衣を思い起こすほど軽く柔らかな手触りで、袖口や裾には、銀糸で月と星の文様が繊細に刺繍され、天の川を引き寄せて織り上げたかのようにきらびやかだ。
胸元には瑠璃の勾玉と同じ形の装飾が施され、彼女のために誂えられたとしか思えないほど完璧に調和している。
畳まれた帯に、銀の緒で結ばれた小さな鈴が一つ挟まれていた。
鈴を手に取ると、遙か天空からの呼び声のように澄んだ音が小さく響く。
染み入るようなその音は不安や雑念を払いのけ、しだいに心に安らぎが満ちていく。
瑠璃は着物を手に取り、胸に押し当て一礼した。
――この衣装を身にまとうべきか。
答えはすでに彼女の内にあった。
着物を広げ肩にかけると、布地が瑠璃の体に自然と寄り添い、月光が包むように柔らかく馴染んだ。
勾玉を首にかけると光が脈打ち、着物の装飾と共鳴をはじめ、体が火照りだす。
――そなたは闇を照らす光。
男の声が聞こえる。
――そなたが我を闇から目覚めさせた。
光を……あまねく闇を照らす太陽となれ。
悪を焼き尽くす力を我に与えよ。
語りかける声とともに体はますます熱を帯び、次第に息が苦しくなっていく。
このままでは自分自身が燃え尽きてしまうのではないか。
――光……光を我に……光を。
声の反響とともに室内に光が広がり、神に手を差し伸べられたような浮遊感にとらわれる。
だが一方、ずっと地を這うように生きてきた瑠璃にとって、それは崖から暗黒をのぞき見るような恐怖でもあった。
自分の翼を自身の光で焼き尽くす悪夢。
世界が割れてゆがむようなめまいに襲われ、息苦しさにもだえた瑠璃は着物を脱ぎ捨て崩れ落ち、そのまま気を失ってしまった。




