(2-3)
◇
日付が変わり半月もかなり傾いた頃、月影大社の裏手で不敬にも立ち小便をする酔っ払いがいた。
祭りの準備で振る舞われた酒を飲み過ぎた男は路傍で眠りこけ、自分のいびきで目を覚ましたのだった。
「こいつはカカアに叱られるな」と、鼻歌交じりに歩き出した男は、月影山へ向かう脇道で人の気配を感じ足を止めた。「ん? こんな真夜中に何だ?」
人さらいの噂を耳にしていた男は、酔いがすっと醒め、木々に覆われた細道を凝視した。
人影は、森には不釣り合いな洋装で、明らかに山の奥へと進んでいる。
その後ろ姿は、坂巻七三郎だった。
彼は苔むした岩と朽ちた木々に囲まれた小さな祠の前で立ち止まった。
祠は古び、風化した石に月神の神紋がかすかに刻まれているが、その紋様はひび割れている。
彼は懐から小さな巻物を取り出し、木々の葉の間からうっすらと差し込む月光にかざした。
巻物には黒ずんだ血文字が綴られている。
七三郎は低い声で呪文を唱え始めた。
「闇に封じられし力よ、月神の呪縛を破り、地上に再びその姿を現せ……」
その瞬間、祠の土台から黒い霧が吹き出し、大蛇のようにうねりながら七三郎の足元を這い、全身を巻き込んでいく。
祠の向こうからかすかな笑い声が響いたかと思うと、忍者のような黒装束に身を包んだ女が姿を現した。
胸元には赤く光る勾玉が吊され、闇の中で不気味に脈打っている。
「今宵も美しいな、沙夜」
黒装束でも覆い隠せない色気を放つ女は唇をなめて笑みを浮かべる。
「坂巻様、お待ちしておりました」
七三郎が巻物をしまうと、女は手を組み合わせ秘術の印を結んだ。
黒い霧が二人の姿をみるみる覆い隠し、闇に溶けて消えてしまう。
「人さらい……いや、神隠しだ!」
のぞき見ていた酔っ払いは腰を抜かし、地べたを這いながら逃げていく。
黒い霧に包まれた二人にはその叫び声がかすれて耳に届いていた。
「これでいい。愚か者に噂を広めさせれば、山に入ろうとする者はいなくなる。月影町の闇は我々のものだ」
小林記者が耳にしていた噂も、こうして七三郎が意図的に流布させていたのだ。
霧が晴れると、二人は月の光も届かぬほど深く刻まれた山奥の谷間に立っていた。
そこは古くから銀の採掘がおこなわれていた坑道口であるが、公には知られていない隠し銀山なのだった。
裏金作りの拠点として採掘がおこなわれ、鉱毒事件もここから垂れ流された汚水が原因だったのだが、坂巻による政府高官への上納金によってもみ消され、正式な採掘権を持つ如月家にすべての責任を押しつけて幕を引いたのだった。
沙夜の胸に吊された勾玉が再び赤く脈打ち、坑道の奥を照らす。
網の目に掘られた地下坑道の壁にはいまだに豊富な銀の鉱脈が露出し、勾玉の光を受けて生き物の血管のように拍動し、奥へ奥へと二人を誘う。
やがて巨大な空間が開けた。
そこはかつて邪教として迫害された信徒によって築かれた神殿であった。
中央には巨大な祭壇がそびえ、月神と鬼の一族の戦いを描いた古い壁画がステンドグラスで鮮やかに彩られていた。
そこには月神が光の槍で鬼を刺して闇に封じる瞬間や、鬼の角から滴る血が銀の鉱脈に変わる様子が描かれている。
しかし、壁画の一角はひび割れ、月神を呪うかのように顔の部分が削り取られている。
壮大な神話を背景に、壇上には黒い三つ揃いのスーツに身を包み、顔を黒い仮面で覆った男が座っている。
黒崎蓮――闇月一族を率いる神殿の主だ。
その手には、月影大社の神紋を逆さに刻んだ杖が握られていた。
沙夜は祭壇の前にひざまずき、恭しく頭を下げる。
「宗主様、坂巻殿をお連れいたしました」
仮面の下から、低く響く声が漏れる。
「ご苦労。下がれ」
一礼し、黒い霧に包まれると沙夜は瞬時に姿を消したが、勾玉の赤い光だけが一瞬宙に残り、流れ星となって闇に溶けた。
「七三郎よ、首尾は上々のようだな」
「はい、すべては計画通り。政府への根回しは残すところわずかでございます」
「ぬかるでないぞ。決起の日まで、我ら同様、表に出ぬようにせよ」
「それはもう、心得ております」
七三郎はこの十年、自分がなしてきた企みを思い起こしながら祭壇に頭を下げた。
黒崎が杖をついて立ち上がり、神話が描かれた壁画を見上げる。
月神の傷から流れ出た血が魑魅魍魎となり人々を苦しめる場面。
そして、それを銀に変えて闇に封じる月神の威光、訪れた平和。
だが、それは闇月一族の苦難の歴史の始まりでもあったのだ。
闇と光は本来表裏一体の関係だったはず。
かつて闇月一族はその片方の宿命を担ってこの世を支配していたのだ。
それを切り捨てた仇敵を打倒することが黒崎率いる闇の一族の悲願なのだ。
「月神よ、そなたが我が一族を闇に封じた罪を償ってもらう。銀は月神に封じられた我ら一族の血の結晶。愚民どもに掘り起こさせ、蓄えてきたその力をようやく行使するときが来たのだ」
七三郎は胸の巻物に手を当て目を輝かせる。
「はい。莫大な財力さえ手に入れれば、帝都の全てを支配できます。私の根回しと黒崎様の秘術があれば、どんな権力者も敵ではありません」
黒崎は壁画に向かって杖を振り、ひび割れた月神の顔に霧を這わせた。
「目障りな蠅が飛び回っているそうだな」
「帝都から来た新米記者だそうです。見せしめとして始末いたしますか」
「いや、ペンは剣よりも強しなどと信じる愚か者は都合良く操るに限る。我らを利する記事を書かせるのだ」
「さすがは黒崎様」
「黒い霧の噂を鬼の仕業と見せかけ、九条の若造をおとしめるのだ」
鬼――それは黒崎率いる闇月一族と対立する、もう一つの闇の勢力。
だが、鬼の一族は月神に取り込まれ、長きにわたって姿を消していたのだ。
「九条悠真が眠りから覚めたというのですか」
その名を口にした七三郎の声は震え、冷や汗にまみれた顔面は蒼白であった。
黒崎は七三郎に杖を向けた。
「我らの宿願に立ちはだかるは月神ではなく、九条だ」
「はい」
「鬼は光と闇をともに宿し、そのどちらともなる存在。月が自ら光を放つことなく大地を照らすように、鬼は単独では力を発揮することはない。だが、九条の若造は光の衣を持ち出した」
黒崎は杖を握る手に力を込め、岩を突いた。
地下神殿の岩盤が震え、黒い霧が湧き出し、背後の神話を覆い隠す。
「九条悠真は月神の光に惑わされ、闇を捨てようとする愚か者。その魂を闇に引き戻すためにも、光の衣をまとう者をやつに接触させてはならぬ」
「それでしたら、私に良い策がございます」
七三郎の目には野心の光が復活している。
「こういうときのために、持ち駒を用意しておきました。我らのための捨て駒として、そそのかしてやりましょう」
「よかろう。おまえに任せる」
黒崎は仮面の下で低く笑い、杖を振り上げた。
「沙夜、出でよ」
「はい、ここに」
闇の天井に赤い光が瞬いたかと思うと霧の中から七三郎の隣に沙夜が姿を現した。
「光を闇に引きずり込め」
「仰せの通りに」
黒い霧が渦巻き、二人の姿を飲み込んでいく。
吹き下ろす風とともに遠吠えのような低いうなり声が響き、月影山の闇が一層深まったころ、二人の姿は神殿から消えていた。




