第3話 : 新しい誘惑
看板すらない路地裏のあばら屋。狭い店内は、男の食欲をそそる力強い咀嚼音と、かまどから広がる心地よい熱気で満たされていた。
カウンターの端では、先ほどの冒険者がガツガツと豪快に白飯をかき込んでいる。そのすぐ隣の席には、深いフードを目深に被ったエリザベートが腰を下ろしていた。
昨夜、魂を揺さぶるような生姜焼きの洗礼を受けた彼女の纏う空気は、今日一段と張り詰めている。
一国の主としての威厳を必死に保とうとしながらも、一人の飢えた人間としての強烈な執着が、その華奢な背中から痛いほどに伝わってくるのだ。
「お待たせ! 特製生姜焼き定食、お待ち!」
哲が威勢よくカウンターの上にドンと置いたのは、香ばしい醤油と生姜の匂いを纏った極上の山だった。その脇には、湯気立つ大盛りの白飯と温かいスープが並んでいる。
目の前に置かれたばかりの特製生姜焼きから立ち上る、暴力的なまでに食欲をそそる香ばしい匂いが、エリザベートの鼻腔を容赦なく撃ち抜く。
昨日あれほど心に誓った「一国の主としての威厳」などというちっぽけな理性が、ジリジリと音を立てて崩壊していくのが自分でもわかる。
「……っ。す、すぅー、はぁー……」
小さく息を吸い込み、タレの滴る分厚い肩肉を一切れをそのまま口へと運んだ。
咀嚼した瞬間、じゅわぁと溢れ出す濃厚な肉汁。甘辛いタレのコクと、ガツンと効いた生姜の爽快な辛みが舌の上で混ざり合い、昨夜刻まれたばかりの記憶をさらに鮮烈に塗り替えていく。
(――美味い、美味すぎる……! なんなのだこの料理は、こんなもの、反則ではないか……!)
頬が緩みそうになる自分を必死に理性の手綱で引き締めながら、エリザベートは必死に威厳を取り繕うのであった。
その隣の席で、自分の器をきれいに平らげた冒険者が、満足げに息をつきながら厨房の哲へと視線を向けた。
「なあ、店主。ここ、他の冒険者に紹介してもいいか?」
その問いかけに、哲は手を止めてわずかに顔を上げた。特別大げさな反応は見せず、静かに、しかし真摯な眼差しでうなずく。
「……本当か? お客さんが来てくれないと、こっちも商売あがったりだからな。ただ、席数は見ての通りだ。紹介してくれるならありがたいが、詰め合って座ってくれよ」
冒険者は短く「おう、分かってる。任しとけ!」と力強く返し、満足そうに店を後にしていった。
静かになった店内で、エリザベートはタレの染みた白飯を次々と口に運んでいく。
肉の旨味が染みたタレを白飯と一緒に胃の腑に流し込み、ひと息ついたところで、彼女はふと手を止める。
そんな客の様子を見ながら、フライパンを布巾で拭いていた哲は、ふっと小さく笑ってカウンターに残る彼女に声をかけた。
「お客さん、明日はな、また別の新しいメニューを出そうと思ってるんだ。美味いもんを食いに、また顔を出してくれよ。損はさせねぇからさ」
哲が放ったその言葉に、エリザベートはわずかに目を丸くした。
彼女は、少し身を乗り出すようにして問いかける。
「……待て、店主。その新しいメニューは、一体いつ頃にできる? 明日来れば、すぐにでも食べられるのか?」
不意打ちの質問に、哲は少し面食らいながらも、手を止めて苦笑交じりに答えた。
「はは、そんなに焦るなよ。明日までにはしっかり仕込んでおくから、昼の営業が始まる頃にはいつでも出せるようにしておくさ」
その返答を聞いたエリザベートは、思わず胸が高鳴るのを抑えきれず、口元が緩むのを必死に引き締める。
「……そこまで言うのなら、明日は少しだけ予定を空けて、新しい料理を食べに来てやるとしよう! 明日の料理、大いに期待しているぞ!」
そう言い残すと、彼女はどこか弾むような足音を立てて、昼下がりの路地裏へと駆けていった。
静かになったあばら屋の中で、哲は明日への仕込みの包丁を再び静かに、そして力強く握りしめるのだった。




