第2話 : 眠れぬ夜
「――陛下、一体どちらに行かれていたのですか……!」
深夜の宮殿の一室。護衛の目を盗んでこっそり帰還したエリザベートを待ち構えていたのは、青い顔をした老宰相・ヴァルターだった。
その声には、最高権力者を単身でお忍びに出歩かせてしまった恐怖と、主君の身を案じる必死の焦りが混じっている。
「ヴァルター……。そんなに大声を出すな、頭に響く」
「大声も出します! 一国の君主が夜更けに単身でお忍びに出歩くなど、万が一のことがあったら帝国はどうなるとお考えですか! 一体どこへ行かれていたのです……?」
「……ちょっと、な」
「ちょっと、とは何ですか! 服には妙な油の匂いなど染みつかせて……。まさか、かがり火の届かないような下町の飲食店などに足を運ばれたのではッ!」
図星を突かれたのか、エリザベートはわずかに身体をびくっと硬直させたが、すぐに冷ややかな視線を宰相に向けた。
「私をなんだと思っている。気晴らしの夜風にあたっていただけだ」
「ぐっ……! しかし、ですね!」
「もういい、下がりなさい。疲れたのだ」
有無を言わせぬ女帝の圧力に気圧され、ヴァルターは悔しそうに歯噛みしながらも、深く一礼して部屋から退散していくしかなかった。
静まり返った広大な寝室。
豪奢なベッドに倒れ込んだものの、頭の中は先ほどの「生姜焼き定食」のことで完全に支配されていた。
(な、なんだあれは……! あの硬くて臭いオークの肉があんなに柔らかく、あんなに甘いなんて聞いていない……! タレのあの、頭がバカになりそうな濃厚さは一体……っ!)
これまで宮殿の最高級食材と、気取ったソースに囲まれて生きてきた。だが、あんなにも本能を暴力的に揺さぶられたのは人生で初めてだった。
もう一度あの味を脳裏で再生しようとするだけで、さっき食べたばかりなのに胃袋がキュウと音を立てて激しく疼く。
(い、いや、私は帝国の頂点に立つ女帝だぞ! たかが路地裏の安い定食屋の飯などに、心を狂わされてたまるか……っ!)
布団に顔をうずめ、必死に理性でかき消そうとする。だが、脳裏からあの「白飯をかき込む幸福感」がどうしても離れない。
シルクのシーツがグシャグシャにひしゃげても、収まらない動悸をごまかすように枕に顔を埋めた。宮殿の重厚な柱時計が、無情に時を刻む音がやけにうるさく響く。
ふと、窓の外に目をやれば、漆黒の空の向こうがわずかに白み始めている。
眠れないまま朝を迎えたエリザベートの目の下のクマは、国家を揺るがす政治のストレスよりも「あの定食への禁断症状」で一段と濃くなっていた。もはや限界だった。
◇
その頃、帝都の北端――。
すっかり日が昇り、昼時を迎えたあばら屋では、哲が昨夜カウンターに残された金貨を眺めながら、深い溜息をついていた。
「これ、マジでどうすんだよ……。あんな大金置いて、昨日の客は一体なんだったんだよ……」
昨日開店したばかりで、看板も出していないこの店には、まだ客など寄り付かない。哲はカウンターを拭き終えると、フライパンを手にしてかまどの薪に火をくべた。
味見を兼ねて、仕込みの肉を一切れ、熱したフライパンへ滑り込ませたその時。
ジュウウウウウッ……!!
熱せられた鉄板で肉の脂が弾け、醤油とすりおろし生姜が絡んだ瞬間、香ばしい爆発的な匂いが一気に立ち上り、開け放たれた戸口から路地裏へと凄まじい勢いで流れ出した。
その兇悪な芳香は、ちょうど店の前を通りかかった一人の冒険者の鼻腔を容赦なくブチ抜いた。
「おっ……なんだこのすげえ美味そうな匂いは……!」
ふらふらと誘われるように暖簾をくぐり、冒険者はカウンターの端にドスンと腰を下ろす。
「いらっしゃい。メニューなんて気の利いたもんねぇけど、生姜焼き定食ならできるぞ」
「おっ、いいなそれ。腹減ってたんだ。頼むわ」
哲が手際よく肉を炒め、テリテリに輝く生姜焼きと山盛りの白飯を冒険者の目の前にドンと置く。
「うおおっ、すげえボリューム……!早速食わせてもらうぜ! 」
冒険者がさっそく肉を口に放り込み、すかさず白飯をかき込む。
「う、うまっ……なんだこれ、めちゃくちゃ美味いぞ……!」
暖簾の隙間から見えた、夢中になって定食を平らげる冒険者の姿と、店内に充満する極上の香ばしい匂い――。
それこそが、まさに店の外をさまよっていたエリザベートの理性を完全にブチ折る引き金だった。
――バサッ!!
真っ白な暖簾が荒々しく跳ね飛ばされる。
「いらっしゃい……って、あんたっ!」
「昨日のあれを……! もう一度私に作れ!」
息を切らして飛び込んできたエリザベートは、哲の言葉を遮るやいなや、持参した金貨をバァンとカウンターに叩きつけた。
「足りない分はこれでどうだ! 早くあの肉を焼け!」
「いや、昨日ので有り余るほどもらいすぎだって言ってんだよ。それに、こんな大金釣り銭も出せねぇよ」
「細かいことはどうでもいい! 昨夜から一睡もできんのだ! あのタレの味が脳裏から離れなくて、もう我慢ならん!」
突然の乱入とすさまじい剣幕に、隣で食べていた冒険者は手をピタリと止め、冷や汗を流しながらそっと体を引いた。
(うわっ、なんだこいつ……急に大金叩きつけて……!)
冒険者が引きつった顔で固まる横で、額に青筋を浮かべつつ、かまどの火を調節しつつ、
血走った目でこちらを睨みつけるフードのお客さんに、やれやれとため息をついた。
「わかった、すぐ作るから少し落ち着けって。空いている席に座って待ってろ」
哲が呆れながらもフライパンを持ち直すと、エリザベートはギリッと歯を鳴らし、冒険者の隣の席へとドスンと腰を下ろすのだった。




