第1話 : 開かれた暖簾
血と泥にまみれて荒れ果てた自らの手のひらを、哲は静かに見つめる。
無造作に握りしめた使い古しの牛刀から、冷たい鋼の感触だけが確かな現実を伝えていた。
この得体の知れない異世界に叩き落されてから、今日でちょうど五年が経つ。
日本で料理人として培ってきた技術と誇り。だが、この世界に持ち込めたのは身一つと、使い慣れた一本の牛刀だけだった。
路頭に迷い、飢えをしのぐために足を踏み入れたのは、帝都の市場の片隅にある劣悪な獣の解体場だ。
毎日毎日、返り血を頭から浴びながら数百頭の異形の獣の皮を剥ぎ、骨を断ち、内臓を洗い流す日々を送った。
そこで哲が直面したのは、この世界の「食」が抱える圧倒的な絶望感だった。
市場に並ぶのは、日本で見慣れた食材とは似て非なるものばかりだ。
不気味に青臭いだけの葉物野菜、粘りも甘みもないパサついた奇妙な穀物、そして解体場で山のように転がる、筋肉がガチガチに硬くて鼻を曲げるほどの獣臭さを放つ肉の塊。
地元の人間ですら「こんなものは硬くて臭くて、ただ腹を満たすだけのガラクタだ」と吐き捨てる。誰もが敬遠する素材の山を相手に、ひたすら肉を削ぎ落とした。
だが、元料理人である哲の目はごまかせない。
——この肉も、あの奇妙な穀物や野草も、ただ雑に火を通すから臭くて固いだけで、プロの知識と技術で正しく処置さえ施せば、必ず美味いメシに化ける。
解体場で毎日無数の肉に触れ続けるうちに、かつての料理人としての血が猛烈にうずき始めた。
刃の入れ方一つで、どれほど固い筋であっても繊維を断ち切れる。肉自体の臭みを消すためには、徹底的な血抜きと下処理が不可欠だ。
そして何よりの壁だったのが「調味料」だった。この世界の市場や街を駆けずり回り、大豆に似た豆や麦を発酵させている現地の黒い液体や、塩気のあるペーストを探し出す。
それらをベースに、あの懐かしい醤油や味噌の味を自力で再構築する。
そこからの一刻一秒は、まさに執念だった。
日中は解体場で血と泥にまみれて働き、夜な夜な小さな部屋で試行錯誤を繰り返す。緻密に調味料の配合を変え、何百回と失敗を重ね、丸々三年を費やしてようやくあの味を完成させた。
解体の仕事で泥臭く、血を吐く思いで貯め込んできた、なけなしの金。
手に入れたのは、帝都の北端にある、陽も差さない湿気たあばら屋が一軒だけだ。
厨房なんて立派なものは最初から存在しなかった。
土間に自分で廃材を組み上げて無骨なカウンターを作り、石を積み上げて手製のかまどを組み、壁をぶち抜いて煙突を引き、重厚な鉄板を砥石でどこまでも平らに、滑らかに磨き上げた。
そうして5年の歳月を費やして作り上げた手作りの調理場に、自分で縫い合わせた真っ白な暖簾を静かにかける。
文字すら書かれていない、ただの真っ白な布だ。
店名なんてどうでもいい。看板で立派に飾らなくとも、本当に腹を空かせた奴なら、この厨房から溢れ出す匂いに勝手に引き寄せられてやってくる。
(……よし、始めるとするか)
哲は無言でまな板へ向かった。乗っているのは、解体場の片隅で「どうせ硬くて売れない」と捨て値で転がっていた、ガチガチの肩肉の塊だ。
使い込まれた牛刀を滑らせ、筋の走り方を正確に見極めながら完璧な厚みに切り分けていく。
トントン、とリズム良く刃が刻む音が狭い室内に響く。
切り終えた肉へ徹底的な血抜きを施し、さらに重みのある包丁の背でドスドスと力任せに肉を叩き潰した。
あの硬い繊維を物理的に破壊し、プロの技で歯がスッと入るように下ごしらえを済ませる。
仕上げにおろし金を取り出し、強烈な辛味を持つ生姜の根を皮ごとガシガシと擦り下ろした。
かまどの薪に火をくべ、重厚な鉄のフライパンを火にかける。
表面からうっすらと熱い煙が立ち上った、まさにその瞬間に、下ごしらえを終えた肉を一気に投入する。
——じゅうううううっ!
弾ける脂の爆音が狭い店内に響き渡る。
強火で一気に肉の表面を焼き固め、旨味をギュッと閉じ込めたところへ、三年かけて仕込んだ黒いタレをフライパンのフチに沿って回し入れた。
バチバチバチッ、と激しい音と共に、ガバッと立ち上る濃厚な香煙。
焦げた醤油の香ばしさと、生の生姜が放つガツンと鼻腔を突き刺すような刺激的な辛味が爆発的な匂いとなって膨らみ、煙突を伝って暗い路地裏へと噴き出していった。
◇
(……気持ち悪い……吐き気がする……)
頭を深く覆うフードの陰で、帝国の若き女帝エリザベートは、眩暈にも似た強い嘔吐感に耐えながら歩いていた。
連日のように続く貴族どもとの醜い権力闘争、終わりのない膨大な公務。
宮殿の広大な食堂で運ばれてくるのは絢爛豪華な料理だが、毒見のためにどれも冷めきり、やたらとドロドロした重たいクリームや気取ったソースで塗り固められたものばかりだ。
それを思い出すだけで、彼女の胃袋はキュッと固く縮こまり、冷や汗が滲む。ここ数日、まともな固形物を一切口にできていなかった。
重苦しいプレッシャーと孤独から逃れるため、護衛の目を盗んでお忍びで迷い込んだ、帝都の北端にある湿気た路地裏。
冷たい夜風に肩をすくめ、足早に通り抜けようとしたエリザベートの足が、ピタリと止まった。
(……な、なに……この匂いは……!?)
甘辛く、香ばしく、どこか野性味の残る焦げた香り。そして、鼻をツンと刺すような生の香草の辛み。
お上品で気取った宮廷料理には絶対に存在しない、荒々しく、理性を直接殴りつけてくるような暴力的な匂いだった。
ドクン、と心臓が跳ね上がった。
冷たく縮こまっていたはずの胃袋が、キュウと音を立てて猛烈に蠢き始める。食欲など微塵もなかったはずなのに、粘り気のある唾液が口の中に溢れ出してきた。
吸い寄せられるように足が動き、あばら屋の前に垂れ下がる無地の白暖簾をくぐる。
ガラガラと音を立てて引き戸を開けると、薄暗い店内のカウンターの奥で、無骨な男がひとり、包丁を握ってこちらを見遣っていた。
男の腕には、何百回と硬い肉を捌いてきた者特有の生傷とタコが刻まれている。
「いらっしゃい。今は、生姜焼きしかないけど、食べるか?」
「……ここは、何をする場所なのだ……?」
「定食屋だよ。ほら、そこに座りな」
客の様子を軽く見据えながら、哲は穏やかに声をかけ、手際よく盛り付けに入った。
それから一分とも経たないうちに、カウンター越しにどんと置かれた木のお盆。
湯気をもうもうと立てる、炊きたての真っ白な米飯。
黒く照り立つ濃密なタレを纏い、黄金色の脂を滴らせる分厚い肉。
その脇には、寸分の狂いもなく細く刻まれたキャベツによく似た肉厚の葉野菜の キャベリそして、温かいスープ。
(……っ……!)
目の前に突きつけられただけで、強烈な香煙が目と鼻を襲い、エリザベートの頭はクラクラと痺れた。
この国の獣肉は固く、強烈な臭みがある。こんな分厚い肉を豪快に焼いただけの料理、噛み切れるはずがない。
エリザベートの頭のどこかで、冷静な理性が警鐘を鳴らす。
だが、手が勝手に震えていた。
導かれるようにフォークを掴み、タレの滴る分厚い肉を一枚突き刺すと、そのまま口の中へと放り込んだ。
——驚くほど柔らかく、歯が肉の奥へすっとまで沈み込んだ。
「っあ……!?」
噛みしめた瞬間、口内で爆ぜたのは臭みなどではなく、ガツンと効いた甘辛いタレの濃厚な旨味と、溢れ出す脂の圧倒的な甘みだった。
直後に生の生姜の爽快な辛みが鼻腔を突き抜け、肉の重たさを一瞬で掻き消していく。
柔らかい。脂が甘い。タレが、どこまでも濃い。
(な、なんだこれは……! なんなのだこのタレは……っ! 旨味が……舌に絡みついて離れない……!)
ゴクリと喉が激しく鳴った。
一口飲み込んだ瞬間、身体中の細胞が一斉に目覚め、強烈な炭水化物を要求して悲鳴を上げた。
エリザベートは女帝としての身分も、優雅な立ち振る舞いも全てかなたへ投げ捨て、丼を両手で力任せに掴み取った。
熱々の白飯を、口の中いっぱいに押し込む。
肉の脂と甘辛いタレが染み込んだ熱い米粒が、口内で弾ける。最高に下品で、最高に美味い。
「んぐ……ふっ……く……っ!」
もはや手が止まらなかった。
肉を食らい、白飯を口へかき込み、タレの染みたシャキシャキのキャベリを押し込み、また肉へとむしゃぶりつく。
上品に味わう余裕なんて微塵も存在しない。
喉を鳴らし、口の周りに照り立つタレをべったりとつけながら、お腹を空かせた野生の動物のように定食を貪り食う。
夢中で手を動かし続け、気づいた時には器の底が見えていた。
スープを一気に飲み干したエリザベートの額には、じんわりと綺麗な汗が滲み出ている。
冷え切っていた腹の底が、まるで太陽でも丸呑みしたかのようにカッと熱かった。
(……っ、全部平らげてしまった……!?)
ハッと我に返ったエリザベートは、慌ててポケットを探り、持ち合わせの中で金貨しかなかったため、その中から金貨一枚を取り出した。それを乱雑に叩きつけるように置く。
「おっ、おい……ちょっ待て、それじゃもらいすぎだ!」
「うるさい! 釣りなどいらない!」
恥ずかしさと、美味さに完敗した悔しさで顔を真っ赤に染め上げたエリザベートは、哲の言葉を遮るやいなや、逃げるようにあばら屋を飛び出していった。
「お、おい、お客さん……!」
哲が慌てて金貨を掴み、戸口へと走って声を張り上げる。だが、帝都の冷たい夜風が吹き抜ける路地裏には、すでに彼女の姿形も残っていなかった。
静まり返った闇を前に、哲は呆れたように大きく息を吐き出す。
手の中で眩い光を放つ金貨を見つめ、やれやれと首を振ると、それを隅の引き出しへ無造作に放り込んだ。
「……まったく、とんでもねぇ客が来たもんだ」
哲は何も言わずに自分の調理場へと戻り、鉄のフライパンを再び水で洗い始めたのだった。




