第39話 三十年前・後編 雨の夜(幕間)
決行の夜は、雨だった。
強い雨は、音を消す。匂いを流す。追手の魔導灯の光を、鈍らせる。マレナが二十年の記録から選び抜いた、最良の夜だった。
夜勤の交代の、七分の穴。マレナは、その七分で、地下独房の錠を、開けた。
「――行くよ、ヴァイス」
「おう」
二年ぶりに独房を出た剣士は、警備兵の詰所から、一本の剣を、静かに取り返した。彼の佩刀だった。取り上げられて二年、手入れもされず埃を被っていたが、鞘を払った刃は、まだ、生きていた。
「……待たせたな、相棒」
*
観察棟の、白い部屋。
扉を開けると、白い寝台の上で、その子は、起きていた。泣きもせず、騒ぎもせず、ただ、天井の染みを、数えるように、見上げていた。
「……この子だね」
マレナは、そっと、赤ん坊を抱き上げた。管を、外す。あたたかい。こんなに小さくて、こんなに、あたたかいのに――この子の心は、どこか遠くに、置いてきぼりにされている。
「ああ。"泳がせる"個体だ。管理が緩む。今しかない」ヴァイスが、廊下を警戒しながら、囁いた。
「連れ出そう。表の記録は、私が消す。この子は、施設の外で――普通の子供として、育てる」
その時。
警報が、鳴った。
七分の穴は、六分で、塞がった。誰かが、独房の空を、見つけたのだ。
「――走れ、マレナ!!」
*
そこからのことを、マレナは、断片でしか、覚えていない。
白い廊下。鳴り響く警報。追ってくる、警備の器たち。心を抜かれた、機械のような兵士。
そして、その全てを、一本の剣で、堰き止めた男。
ヴァイスの剣は、二年の牢を、感じさせなかった。毎日千回、指でなぞり続けた型は、体を、裏切らなかった。旧王国流の最後の正統が、狭い廊下で、器の兵士を、一体、また一体、斬らずに、沈めていく。
「先に行け! 搬出路だ! 振り返るな!」
「ヴァイス、あんたは――」
「いいから、走れェ!!」
マレナは、走った。赤ん坊を、雨具の内側に抱いて。搬出路の、緩んだ封鎖を抜けて。雨の中へ。
最後に振り返った時、見えたのは――術式の炎だった。
追跡用の、焼印の術。放たれたそれを、ヴァイスが、顔で、受けていた。避ければ、マレナたちに、当たっていた。
彼の左目が、炎に、灼かれた。
それでも、剣士は、倒れなかった。灼かれた顔のまま、剣を構え直し、追手の前に、立ち塞がり続けた。
*
雨の、夜道を、マレナは、走り続けた。
どれだけ走ったか、分からない。気づけば、施設の光は、遠く、雨の向こうに、消えていた。
腕の中で、赤ん坊が、身じろぎした。
雨具の隙間から、小さな顔が、覗く。雨粒が、一つ、その頬に、落ちた。
「……ごめんよ。冷たいね。もう少しだ。もう少しで――あんたは、自由だ」
その時、マレナは、気づいた。
赤ん坊が、彼女の顔を、じっと、見ていた。
空っぽの、何もない目で。だが、その目の、一番奥で――何かが、ほんの一瞬、揺れた気がした。雨の音の中で。抱かれた、ぬくもりの中で。
「……ふふ。あんた、今、ちょっとだけ、生きてる目をしたよ」
マレナは、泣きながら、笑った。
「名前を、つけなきゃねえ。番号じゃない、名前を。……そうだ」
雨が、二人を、包んでいた。施設の白い部屋から、この子を、洗い流すように。自由の匂いのする、夜の雨が。
「――レイン。あんたの名前は、レインだ。雨の夜に、自由になった子。……いい名前だろう」
赤ん坊は、答えない。ただ、雨の音を、聞いていた。
*
三日後。国境近くの、寂れた祠で、二人は、落ち合った。
ヴァイスの左目は、もう、光を、映さなかった。焼印の術の炎は、彼の目と、頬に、生涯消えない痕を、残していた。
「……すまないね。あんたの目が」
「目玉一つで、子供一人なら、安い買い物だ」
片目の剣士は、笑って、それから、懐から、一冊の帳面を、取り出した。分厚い、書きかけの手記。
「約束のもんだ。剣の型と、魔力の基礎。この十日で、書けるだけ書いた。……続きは、逃げながら書く。仕上がったら、然るべき時に、あの子の傍に、置く」
マレナは、手記の、最初の頁を、見た。
『型は一日千回。欠かすな。理由は問うな』
「理由は問うな、かい。……教えてやらないのかい。これが、あんたの命を、繋いだ術だって」
「教えりゃ、意味を考える。意味を考えりゃ、いつか、疑う。疑えば、やめる」ヴァイスは、首を振った。「……ただの習慣に、しちまうのが、一番強い。呼吸みたいにな。あの子が、いつか、自分で、意味に辿り着く日まで――問わずに、積んでもらう」
「……あんたらしい」
マレナは、赤ん坊を、抱き直した。これから、この子を連れて、灰色区に潜る。ヴァイスは、追手を引きつけるため、別の道を行く。北の、獣人の村のあたりに、しばらく、隠れると言った。
「なあ、マレナ。この子の、登録の姓は、どうする。あんたの姓は、施設に、割れてる」
「ん……そうだねえ」
マレナは、少し考えて、悪戯っぽく、笑った。
「――あんたの姓、借りるよ。アシュフォード。……この子の親代わりは、あたしたち、二人なんだから。半分こだ」
ヴァイスは、目を、見開いた。それから、灼かれていない方の目元を、乱暴に、拭った。
「……勝手にしろ」
「ふふ。勝手にするさ」
レイン=アシュフォード。
雨の夜に自由になった、二人の子。
*
別れ際、ヴァイスは、赤ん坊の、小さな頭に、ごつい手を、そっと、置いた。
「……いいか、坊主。俺たちのことは、覚えてなくていい。この夜のことも、白い部屋のことも、全部、忘れちまえ」
「ヴァイス……」
「辛いことを、覚えてる必要はねえ。……ただ、生きろ。毎日、積んで、生きろ。そんで、いつか――」
片目の剣士の声が、少しだけ、揺れた。
「――いつか、心が、帰ってきたら。その時は、うんと、幸せになれ。俺たちの分まで、とは言わねえ。……お前の分だけで、いいから。誰かを、愛して。愛されて。……普通に、幸せに、なれ」
雨は、もう、上がっていた。
雲の切れ間から、朝の光が、差し始めていた。
マレナは、赤ん坊を抱いて、灰色区への道を、歩き出した。歩きながら、腕の中の、小さな寝顔に、囁いた。後に、死の間際にも、もう一度、繰り返すことになる、その言葉を。
「――お前は、忘れたままでいい」
それは、呪いではなかった。封印でもなかった。
ただの、祈りだった。
辛い記憶は、置いていけ。幸せだけを、拾って生きろ、という。
名も無き二人の、精一杯の――親心だった。
(次話:本編に戻り、王都への旅立ち。)




