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第38話 三十年前・前編 研究員マレナ(幕間)

 ――これは、レインがまだ、名前すら持たなかった頃の話。


    *


 白い部屋の廊下を、マレナは今日も歩いていた。


 薬草を煮詰めた匂い。等間隔の魔力灯。壁の向こうから漏れる、子供たちの泣き声。勤めて二十年になるが、この泣き声にだけは、ついに慣れなかった。


 マレナの職分は「経過観察員」。被験体の子供たちの、日々の状態を記録する仕事だ。食事の量。睡眠の深さ。そして――心的反応の、残量。


『十七番。次、十七番』


 拡声の魔導具が、事務的に呼んだ。マレナは観察室に入り、白い寝台の上の、その子を見た。


 生後、およそ一年。腕に管を繋がれた、小さな赤ん坊。


 泣かない子だった。


 他の被験体は、施術のたびに泣いた。泣いて、泣いて、だんだん泣かなくなって、最後は、空になる。だがこの子は、最初から、ほとんど泣かなかった。まるで、生まれる前から、泣くことを諦めていたかのように。


「十七番、経過良好。心的反応、限りなくゼロ。……この個体は、"器"になる。他とは違う」


 白衣の主任が、満足げに言った。マレナは、記録板に、その言葉を書き写した。書きながら、指が、震えた。


(この子は、違う。この子は――施術の前から、もう、空っぽだったんだ)


 二十年の観察員の目が、告げていた。この赤ん坊の空洞は、施設で作られたものではない。もっと前から――生まれた時から、いや、もしかしたら、生まれる前から、この子は、心を、どこかに置いてきている。


 その空洞に、施設は、目をつけた。


「上の指示だ。この個体は、"泳がせる"。心を空にしたまま、外で育てて、どこまで力を溜められるか、長期観察する。……成功すれば、量産の雛形になる」


 雛形。マレナは、その言葉を、記録板に書いた。書いて、その夜、決めた。


(――この子は、渡さない)


    *


 その男は、地下の独房にいた。


 被験体囚・第七号。元・王国騎士団、旧王国流剣術指南役。三十九歳。施設の存在を知り、告発しようとして捕らえられ、「成人でも器になれるか」の実験体にされた男。


 ヴァイス=アシュフォード。


「……また、あんたか。観察員殿」


 鉄格子の向こうで、男は、独房の床に、指で何かをなぞっていた。毎日、毎日、同じ動きを。マレナは知っていた。あれは、剣の型だ。剣を取り上げられた剣士が、指先だけで、毎日千回、型をなぞっている。


「今日も、経過観察かい。俺の心的反応は、どうだ。減ったか」


「……減っていない。あなたは、二年施術を受けて、まだ、心が減っていない。施設は、あなたを『失敗作』と呼び始めてる」


「はっ。そいつは、光栄だ」


 ヴァイスは、笑った。この地下で、笑える人間は、彼だけだった。


 マレナは、長いこと、この男を観察してきた。そして、気づいていた。この男の心が、施術に耐えている理由。


 毎日の、千回だ。


 指先の型。取り上げられても、奪われても、毎日、同じことを、積み続ける。その反復が、心の輪郭を、内側から、支えている。心を抜く術式は、「揺らぎ」を捕まえて、抜く。だが、毎日同じことを積む人間の心は、揺らがない。揺らがないものは、掴めない。掴めないものは、抜けない。


「……ヴァイス。あなたに、話がある」


 マレナは、声を落とした。二十年、記録だけしてきた女の、最初の、裏切りの声。


「十七番の子を、知ってる? 赤ん坊の」


「泣かない子、だろ。噂は、聞こえてくる。……次の"雛形"だそうだな」


「あの子を、逃がしたい」


 ヴァイスの、指が、止まった。二年間、一日も止まらなかった指が。


「……あんた、正気か。ここの警備を、知ってるだろう」


「知ってる。二十年いるから、誰よりも知ってる。夜勤の交代の穴も、記録の消し方も、搬出路の封鎖の緩む日も。……全部、知ってる」


 マレナは、鉄格子に、額を寄せた。


「あたしは、二十年、記録してきた。子供たちが、空になっていくのを。記録して、記録して、何もしなかった。……もう、嫌なんだ。最後に一人でいい。一人だけでも、記録じゃなくて――救いたい」


 長い、沈黙があった。


 やがて、ヴァイスは、立ち上がった。二年ぶりに、指ではなく、全身で、構えを取った。独房の中で。錆びていない、旧王国流の構えを。


「……体は、まだ動く。毎日、千回、なぞってたからな」


「ヴァイス――」


「一つだけ、条件だ」男は、静かに言った。「逃がすだけじゃ、駄目だ。あの子は、心が空のまま、外に出る。空のままじゃ、いつか、力に食われて、焼き切れる。……だから、あの子にも、"これ"を、仕込む」


 彼は、自分の指先を、掲げた。毎日、千回、型をなぞり続けた、その指を。


「毎日、同じことを、続けさせる。心が空でも、体に"積む"習慣があれば、あの子は、焼き切れない。俺が、この地下で、二年、証明した。……それを、あの子の、生きる術にする」


「……どうやって? あたしたちは、ずっと傍には、いられないかもしれない」


「書く」


 ヴァイスは、言った。


「手記を書く。剣の型と、魔力の基礎と……あの子が、一人になっても、積み続けられるように。全部、書き残す」


 雨の季節が、近づいていた。


 決行の夜まで、あと、十日。


(次話・後編:雨の夜。レインの名前の、由来。)

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