第37話 白い部屋、ふたたび
その夜、俺は、青い腕紐を、外していた。
理由は、単純だった。剣楽祭と魔物騒ぎで、腕紐が汗と埃で汚れ、リゼが「洗って、繕い直す」と持っていったのだ。「一晩だけ、貸してね。明日には返すから」と。
腕紐を外して眠るのは、あれをもらって以来、初めてだった。
そして――久しぶりに、白い部屋の夢を、見た。
*
白い部屋だ。壁も床も天井も白い。薬草を煮詰めた匂い。だが、今夜の夢は、いつもと違った。
「続き」から、始まったのだ。
これまで、白い部屋の夢は、いつも同じ場面の断片だった。白い椅子。壁越しの泣き声。事務的な男の声。『十七番、次、十七番』。それだけの、繰り返し。
だが今夜は、その先が、あった。
夢の中の俺は、とても小さい。白い部屋の、白い寝台に、寝かされている。腕には、管が繋がれている。壁の向こうの泣き声は――今夜は、五つに減っていた。昨日より、また一つ。
扉が開く。白衣の男たちが入ってくる。その中の一人が、俺の腕の管を確かめて、事務的に言う。
『十七番、経過良好。心的反応、限りなくゼロ。……この個体は、"器"になる。他とは違う』
別の声が、答える。
『では、施術を進めますか』
『いや。上の指示だ。この個体は、"泳がせる"。心を空にしたまま、外で育てて、どこまで力を溜められるか、長期観察する。……成功すれば、量産の雛形になる』
量産の、雛形。
夢の中の俺は、それを、ただ、観察していた。恐怖もなく。悲しみもなく。ただ、白い天井の、染みの数を、数えていた。
そして――その夜。
白い部屋の、扉が、静かに開いた。
白衣ではない、影が、忍び込んできた。片目の、老いた影。そして、皺だらけの手をした、老婆の影。
『……この子だね』老婆の声。
『ああ。"泳がせる"個体だ。管理が緩む。今しかない』老傭兵の声。
『連れ出そう。表の記録は、私が消す。この子は、施設の外で――普通の子供として、育てる』
老婆の手が、そっと、俺を抱き上げた。温かかった。夢の中で、俺は、その温かさを、初めて、意識した。
『可哀想に。……こんなに小さいのに、心を、空にされて』老婆が、囁いた。『大丈夫。忘れておいで。全部、忘れて。……お前は、忘れたままでいい』
――お前は、忘れたままでいい。
老婆の、最期の言葉。それは、俺を、施設から連れ出した夜に、既に、言われていた言葉だった。
『毎日、同じことを、続けさせろ』老傭兵の声。『心が空でも、体に"積む"習慣があれば、この子は焼き切れない。手記を、置いておく。この子が、七つになったら、拾うように』
『分かった。……この子が、いつか、心を取り戻せるように。私たちに、できるのは、それだけだね』
二つの影が、俺を抱いて、白い部屋を、後にする。
扉が閉まる寸前、俺は――夢の中の、小さな俺は、生まれて初めて、声を、上げた。
意味のない、赤ん坊の、泣き声を。
心が空のはずの、俺が。抱き上げられた温かさに、たった一度だけ、反応して。
*
目が覚めた時、俺の頬は、濡れていた。
涙、だった。
俺は、涙を流す機能を、とうに失っていたはずだった。悲しみも、感じないはずだった。だが、頬を伝うそれは、確かに、涙だった。
夢の内容は、全部、覚えていた。白い部屋。十七番。器。泳がせる。老婆と、老傭兵。そして――抱き上げられた、温かさ。
俺の空洞が、いつ、どうやって、開けられたのか。誰が、俺を、そこから逃がしたのか。なぜ、手記が、俺の寝床に置かれていたのか。なぜ、婆さんが、「忘れたままでいい」と言ったのか。
全部の点が、この夢で、一本の線に、繋がった。
俺は、施設で、心を空にされた、"十七番"。器の候補。逃がされた、最後の子供。
そして、俺を逃がした二人は――俺が、いつか、心を取り戻せるように、と願って、命がけで、俺を連れ出していた。
「――レイン!?」
裏庭に面した窓が開いて、リゼが、血相を変えて駆けてきた。腕紐を繕っていて、遅くまで起きていたのだろう。
「どうしたの!? あんた、泣いて……!」
「……泣いている、のか。俺は」
「うん! 泣いてる! すごく!」
俺は、自分の頬に触れた。濡れていた。温かかった。
「……夢を、見た。白い部屋の、続きだ。全部、分かった。俺が、何者なのか。誰が、俺を、逃がしたのか」
リゼは、何も聞かなかった。ただ、俺の隣に座り、俺の手を、両手で、強く握った。
「……話したい時に、話して。今は、いい。今は――」
彼女は、俺の手を握ったまま、静かに言った。
「今は、泣いていいよ。あんた、ずっと、泣けなかったんだから。二十年分でも、三十年分でも、泣いていいよ。あたしが、ここにいるから」
俺は、彼女の手の温かさを、感じていた。
夢の中の、老婆の手の温かさと、同じだった。
俺は、生まれて初めて――自分の意思で、声を上げて、泣いた。
心を空にされた、十七番が。逃がされて、積み続けて、ようやく、取り戻した心で。
握られた手の温かさに、二十六年と、十年分の、涙を、流した。
*
夜が、明けた。
泣き疲れて、俺は、少しだけ、眠った。目覚めると、リゼが、俺の手を握ったまま、隣で、うとうとしていた。手には、繕い終えた、青い腕紐。
俺は、その腕紐を、そっと、左手首に、結び直した。
そして、決めた。
王都へ、行く。全部の答えが、そこにある。俺を"泳がせた"者たち。量産の雛形にしようとした、実験。それを、終わらせに行く。
もう、逃げも隠れもしない。
積んできたものが、あるから。守るべきものが、隣にいるから。
「……ん。レイン、起きてる?」
リゼが、目を覚ました。俺の左手首の腕紐を見て、微笑んだ。
「あ、着けてくれたんだ。……ねえ、目、腫れてるよ。ふふ」
「お前もだ」
「え!? ……う、うそ! やだ、見ないで!」
朝の光が、裏庭に差し込んでいた。
昨日までとは、違う朝だった。俺は、自分が何者かを知った。そして、それでも、俺の朝は、変わらず、ここにあった。にぎやかな、温かい、帰る場所。
千回の素振りを、俺は、いつも通り、始めた。
だが、今日の千回は、空洞を埋めるためではなかった。
守るために。取り戻した心を、隣にいる人を、この居場所を、守るために。
(次話・幕間:三十年前。白い施設に、一人の研究員がいた。)




