表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
36/40

第36話 めくれた頁

 剣楽祭の優勝から、半月。


 俺は、正式にB級へ昇格した。灰色区の孤児が、登録一年に満たずB級。支部どころか、王国全体でも稀な速度だという。だが、ランクは俺にとって、依頼を選ぶ幅が広がる、それだけの意味しかない。積むものは、変わらない。毎朝、千回。


 変わったのは、ギルドの空気と――リゼとの、距離だった。


「はい、朝ごはん! 今日は、あんたの好きな、焦げ目つきのパン!」


 裏庭の切り株の食卓に、リゼが椀を並べる。丘の日から、彼女は、前より少しだけ、俺との距離が近い。肩が触れる位置に座り、時々、俺の袖ではなく、手を、そっと握る。


「あーっ! おにいさんとリゼおねえちゃん、また二人だけの世界!」


 フィノが尻尾を膨らませて割り込んでくる。エルシアが「あら、朝から仲がよろしいこと」とからかい、セツが暗がりから「……眩しい」と呟く。にぎやかな、俺の朝。


 告白の返事を、俺はまだ、正式にはしていない。「名前のない感情」のままだ。だがリゼは、それでいいと言った。「名前がつくまで、あたしが隣で待ってる。あんたの帳面に、ちゃんと札が貼られる日まで」と。


 だから俺は、焦らない。積めば、いつか、形になる。この感情にも、いつか、名前がつく。それまで、彼女は、隣にいてくれる。


    *


 事件は――いや、事件ではない。変化は、その夜に起きた。


 告白の丘の日以来、俺は毎晩、帳面の「第一頁・改」を読み返す癖がついた。その夜も、俺は帳面を閉じ、いつものように、藁の下の手記を、手に取った。


 そして、気づいた。


 手記の、最後の頁。


 めくれかけていた角が――完全に、めくれていた。


 以前は、爪の先が入るか入らないかだった。今は、頁が、はっきりと、一枚分、浮いている。開こうと思えば、開く。


 俺は、息を、ひとつ吐いた。焦る必要はない。だが、確かめる価値は、ある。


 そっと、頁を、めくった。


    *


 長い間、鉄板のように閉じていた最後の頁は――ほとんどが、まだ白紙だった。


 だが、一番上に、一行だけ。にじみ一つない、あの不思議なインクで、文字が、書かれていた。


『これを読めているなら、お前は、心を取り戻し始めている』


 俺は、その一行を、何度も読んだ。


『この頁は、お前の心が動くたび、少しずつ開く。全部を読める日が来たら、その時、お前は、全部を知る準備ができている。急ぐな。積め。――お前を逃がした、老いぼれより』


 老いぼれ。片目の、老傭兵。手記の主。カイムと俺の、師。


 彼は、知っていた。この手記を拾う子供が、いつか心を取り戻すことを。そして、その日のために、心の回復に連動して開く頁を、遺していた。


 俺は、頁を、そっと撫でた。


『急ぐな。積め』


 俺が、十年、無自覚に守ってきた言葉と、同じだった。師は、最初から最後まで、同じことを、俺に言い続けていた。


「――レイン? まだ起きてるの?」


 裏庭に、リゼの声がした。夜番の見回り。彼女は、俺の手の中の手記を見て、目を見開いた。


「あ……! そのページ、開いてる! 開かないって言ってた、あの!」


「ああ。……お前が触れた日から、少しずつ、緩んでいた。今日、開いた」


 リゼは、隣に座り、頁を覗き込んだ。そして、そこに書かれた一行を読んで――ぽろ、と、涙をこぼした。


「……『心を取り戻し始めている』……。よかった。よかったね、レイン。……あんた、ちゃんと、取り戻してる。あたし、知ってた。ずっと、見てたもん」


「泣くところか、これは」


「泣くとこだよ! ばか! こんなの、泣くに決まってるでしょ!」


 リゼは、涙を拭いもせず、笑った。泣きながら、笑っていた。俺の帳面には、その表情の札が、まだ、ない。「嬉しくて泣く」という項目を、俺は、この夜、初めて作った。


    *


 その夜、俺は、なかなか眠れなかった。


 眠れない、という経験そのものが、俺には珍しかった。かつては、頭を枕につければ、機械のように意識が落ちた。だが今夜は、胸の中で、何かが、ざわめいていた。


 師の言葉。取り戻し始めている、という一行。リゼの、涙。


 俺の空洞は、もう、空洞ではなくなりつつある。積んできたものが、剣だけではなかったことに、俺は、ようやく気づき始めていた。


 窓の外、二階の灯りは、今夜も、ついていた。


 その灯りを見ていると、胸のざわめきが、少しだけ、和らいだ。


 ――明日も、千回。


 だが、明日の千回は、今までとは、少し違う気がした。空洞を埋めるためではなく、守るべきものが、できたから。


 その違いに、まだ、名前はない。


 だが、悪くなかった。むしろ――生きている、という感覚に、一番近い何かだった。


(次話:腕紐を外して眠った夜。白い部屋の夢が、「続き」から始まる。)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ