第36話 めくれた頁
剣楽祭の優勝から、半月。
俺は、正式にB級へ昇格した。灰色区の孤児が、登録一年に満たずB級。支部どころか、王国全体でも稀な速度だという。だが、ランクは俺にとって、依頼を選ぶ幅が広がる、それだけの意味しかない。積むものは、変わらない。毎朝、千回。
変わったのは、ギルドの空気と――リゼとの、距離だった。
「はい、朝ごはん! 今日は、あんたの好きな、焦げ目つきのパン!」
裏庭の切り株の食卓に、リゼが椀を並べる。丘の日から、彼女は、前より少しだけ、俺との距離が近い。肩が触れる位置に座り、時々、俺の袖ではなく、手を、そっと握る。
「あーっ! おにいさんとリゼおねえちゃん、また二人だけの世界!」
フィノが尻尾を膨らませて割り込んでくる。エルシアが「あら、朝から仲がよろしいこと」とからかい、セツが暗がりから「……眩しい」と呟く。にぎやかな、俺の朝。
告白の返事を、俺はまだ、正式にはしていない。「名前のない感情」のままだ。だがリゼは、それでいいと言った。「名前がつくまで、あたしが隣で待ってる。あんたの帳面に、ちゃんと札が貼られる日まで」と。
だから俺は、焦らない。積めば、いつか、形になる。この感情にも、いつか、名前がつく。それまで、彼女は、隣にいてくれる。
*
事件は――いや、事件ではない。変化は、その夜に起きた。
告白の丘の日以来、俺は毎晩、帳面の「第一頁・改」を読み返す癖がついた。その夜も、俺は帳面を閉じ、いつものように、藁の下の手記を、手に取った。
そして、気づいた。
手記の、最後の頁。
めくれかけていた角が――完全に、めくれていた。
以前は、爪の先が入るか入らないかだった。今は、頁が、はっきりと、一枚分、浮いている。開こうと思えば、開く。
俺は、息を、ひとつ吐いた。焦る必要はない。だが、確かめる価値は、ある。
そっと、頁を、めくった。
*
長い間、鉄板のように閉じていた最後の頁は――ほとんどが、まだ白紙だった。
だが、一番上に、一行だけ。にじみ一つない、あの不思議なインクで、文字が、書かれていた。
『これを読めているなら、お前は、心を取り戻し始めている』
俺は、その一行を、何度も読んだ。
『この頁は、お前の心が動くたび、少しずつ開く。全部を読める日が来たら、その時、お前は、全部を知る準備ができている。急ぐな。積め。――お前を逃がした、老いぼれより』
老いぼれ。片目の、老傭兵。手記の主。カイムと俺の、師。
彼は、知っていた。この手記を拾う子供が、いつか心を取り戻すことを。そして、その日のために、心の回復に連動して開く頁を、遺していた。
俺は、頁を、そっと撫でた。
『急ぐな。積め』
俺が、十年、無自覚に守ってきた言葉と、同じだった。師は、最初から最後まで、同じことを、俺に言い続けていた。
「――レイン? まだ起きてるの?」
裏庭に、リゼの声がした。夜番の見回り。彼女は、俺の手の中の手記を見て、目を見開いた。
「あ……! そのページ、開いてる! 開かないって言ってた、あの!」
「ああ。……お前が触れた日から、少しずつ、緩んでいた。今日、開いた」
リゼは、隣に座り、頁を覗き込んだ。そして、そこに書かれた一行を読んで――ぽろ、と、涙をこぼした。
「……『心を取り戻し始めている』……。よかった。よかったね、レイン。……あんた、ちゃんと、取り戻してる。あたし、知ってた。ずっと、見てたもん」
「泣くところか、これは」
「泣くとこだよ! ばか! こんなの、泣くに決まってるでしょ!」
リゼは、涙を拭いもせず、笑った。泣きながら、笑っていた。俺の帳面には、その表情の札が、まだ、ない。「嬉しくて泣く」という項目を、俺は、この夜、初めて作った。
*
その夜、俺は、なかなか眠れなかった。
眠れない、という経験そのものが、俺には珍しかった。かつては、頭を枕につければ、機械のように意識が落ちた。だが今夜は、胸の中で、何かが、ざわめいていた。
師の言葉。取り戻し始めている、という一行。リゼの、涙。
俺の空洞は、もう、空洞ではなくなりつつある。積んできたものが、剣だけではなかったことに、俺は、ようやく気づき始めていた。
窓の外、二階の灯りは、今夜も、ついていた。
その灯りを見ていると、胸のざわめきが、少しだけ、和らいだ。
――明日も、千回。
だが、明日の千回は、今までとは、少し違う気がした。空洞を埋めるためではなく、守るべきものが、できたから。
その違いに、まだ、名前はない。
だが、悪くなかった。むしろ――生きている、という感覚に、一番近い何かだった。
(次話:腕紐を外して眠った夜。白い部屋の夢が、「続き」から始まる。)




