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第35話 ちゃんとした場所で

 土砂は、翌朝には撤去された。


 子狼は、森に返した。しばらく俺たちの周りをうろついた後、遠くで母狼らしき遠吠えが聞こえると、そちらへ駆けていった。振り返って、一度だけ、俺の目を見て。


「……行っちゃったね」リゼが、少し寂しそうに笑った。「でも、よかった。ちゃんと、帰る場所があって」


「ああ」


 帰る場所。俺にも、いつの間にか、それがあった。灰色の鷲の、あのにぎやかなギルド。裏庭の切り株の食卓。二階の、あの窓。


    *


 街に戻ったのは、昼過ぎだった。


 報告を済ませ、リゼを送るついでに、俺は彼女を、街の外れの丘へ誘った。


「え? 丘? 帰るんじゃないの?」


「昨夜の続きを聞く。……ちゃんとした場所で、と言った」


 リゼの顔が、一気に赤くなった。


 丘の上は、街を一望できた。夕暮れの光が、灰色区の屋根も、ギルドの塔も、市場の喧騒も、等しく金色に染めていた。風が、リゼの青いリボンを揺らす。


「……えっと。その。昨夜の、続き」


 リゼは、両手を胸の前で握って、俯いた。それから、意を決したように、顔を上げた。


「あたし、ずっとあんたのこと、見てた。物心ついた時から。あんたが何も感じないの、知ってた。あんたが自分のこと、何も話さないのも、知ってた。……だから、あたしが見てるしかないって、思ってた」


 風が、丘の草を撫でた。


「でもね。最近、思うの。あたしが見てるだけじゃ、足りないって。あたしは、あんたに――あんたの隣に、いたい。警報係とか、幼馴染とかじゃなくて。……その」


 彼女の声が、震えた。


「あたし、あんたのことが、好き。ずっと前から、好きだった。……返事は、期待してない。あんたが、感じ方を忘れてるの、知ってるもん。ただ――知っててほしかった。それだけ」


 言い切って、リゼは、泣きそうな顔で、笑った。無理に作った笑顔だった。俺の帳面の、一番古い頁に記録されている、彼女の「強がり」の顔。


 俺は、口を開こうとした。


 いつもなら、ここで「そうか」とだけ返して、終わりにしていたはずだ。感情が動かない以上、それ以外の返し方を、俺は知らなかったから。


 だが、喉の奥に引っかかっていたものが、今日は、言葉になった。


「リゼ。俺は、感じ方を、ほとんど忘れた」


 リゼの顔が、少し、曇った。


「でも」


 俺は、続けた。自分でも驚くほど、言葉が、止まらなかった。


「お前が、俺の前からいなくなる想像をすると、何かが、ひどく――嫌だと思う。それが『好き』という感情なのか、俺には、まだ分類できない。帳面のどの頁にも、まだ、その札がない」


「……レイン」


「だが、はっきりしていることが、ある。俺の帳面は、お前から始まった。俺の空洞に、最初に何かを積んだのは、お前だ。毎朝、窓から俺を見て、弁当を押しつけて、袖を掴んで、俺の『何もない顔』の奥に、光があると言い続けた、お前だ」


 俺は、彼女の目を、まっすぐ見た。


「名前は、まだない。でも――俺の隣に、お前がいてほしい。それだけは、計算じゃなく、分かる」


 リゼは、目を、大きく見開いた。


 それから、じわり、と、涙を溢れさせた。


「……っ、ばか。そんな、不器用な言い方、ある?」


「他に、言い方を知らない」


「知ってる。……知ってるから、っ」


 リゼは、涙を拭いもせず、俺に、一歩、近づいた。そして、俺の胸に、そっと、額を当てた。昨夜の焚き火の時よりも、ずっと近く。


「それで、十分だよ。あんたが、名前のない気持ちを、あたしにくれた。……それだけで、あたしには、十分すぎる」


 俺は、彼女の背に、そっと手を回した。


 抱きしめる、という所作を、俺は、この時、初めて知った。帳面の引用ではない。誰かに教わったのでもない。ただ、そうしたいと、俺の空洞が、初めて、望んだ。


 夕暮れの丘で、俺たちは、しばらく、そうしていた。


    *


 その夜、俺は帳面に、新しい頁を作った。


 これまでの帳面は、全部、他人の感情の記録だった。だが、この頁は、違う。


『第一頁・改。名称不明の感情について。発生源:リゼ。症状:彼女がいなくなる想像で、胸に痛みに似た反応。彼女が笑うと、空洞に熱。彼女に触れると、それを損失として計上できない。……分類、継続。ただし――』


 俺は、少し迷ってから、最後に、一行、書き足した。


『――ただし、この感情を、失いたくない。それだけは、確かだ』


 書き終えて、俺は、窓の外を見た。


 二階の、あの窓に、灯りがついていた。今夜も、リゼは、何かを書いているのだろう。彼女の帳面に。俺のことを。


 俺の帳面と、彼女の帳面。二冊が、今夜、同じ夜を、別々の頁に、記録している。


 いつか、二冊を、並べて読む日が来るだろうか。


 その想像は、なぜか、悪くなかった。むしろ――待ち遠しい、に近い、名前のつけられない何かが、俺の空洞を、静かに、温めていた。


(次話:手記の最後の頁が、ついに動く。)

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