表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
34/40

第34話 焚き火の夜

 隣町へのお使いは、平和だった。


 剣楽祭優勝の熱も、魔物乱入の騒ぎも、街道の初夏の風の中では、遠い出来事のように思えた。リゼは終始上機嫌で、鼻歌を歌い、道端の花を摘み、俺に「はい、優勝記念」と一輪、胸ポケットに挿した。


 商業ギルドでの手続きは、滞りなく済んだ。問題は、帰り道だった。


「……降ってきたね」


 昼過ぎから、空が暗くなった。夏の夕立だ。街道の脇の東屋で雨宿りしているうちに、遠くで地鳴りがした。雨で緩んだ斜面が、街道の一部を、土砂で塞いだのだ。


「これは……今日中には、抜けられないな」


 迂回路は森を大きく回る。日が暮れる。無理に進むより、夜を明かして、朝に土砂の撤去を待つほうが安全だ。リゼの警報に聞くと、彼女も「うん、朝まで待ったほうがいい気がする」と頷いた。


 森の入り口の、雨をしのげる岩陰。俺は手際よく焚き火を熾し、携帯食を分けた。護衛任務の野営は、手順が決まっている。手順どおりにやるだけだ。


 ――だが、その夜は、手順どおりにはいかなかった。


    *


「……ねえ、レイン」


 焚き火の向こうで、膝を抱えたリゼが、ぽつりと言った。夜番は交代制にしたが、彼女は眠る気配を見せず、さっきから、ちらちらと俺を見ている。


「先に寝ていい。俺が見てる」


「……嫌」


 短い返事に、俺は視線を上げた。


「あんた一人にしたくないだけ。それだけ」


 沈黙が落ちた。パチ、と薪が爆ぜる音だけが響く。焚き火の明かりが、リゼの頬を、赤く照らしている。火のせいだけでは、ないように見えた。


 しばらくして、リゼが顔を上げた。いつもの快活さが鳴りを潜め、代わりに、ひどく真剣な目で、俺を見ていた。


「あんたにさ、ずっと聞きたかったこと、あるんだ」


「聞こう」


「あんたは、何も感じないんだよね。怖いとか、痛いとか、嬉しいとか」


「……昔は、そうだった。今は――少し、違う。名前のつけられないものが、増えた」


「そっか。……じゃあ」


 リゼは、膝の上で、拳を握った。焚き火のせいだけではなく、頬が、さらに赤らんでいる。


「あたしのことも……何か、感じる?」


 問いの意味を、俺はすぐには処理できなかった。処理できた瞬間、答えるべき言葉が、なぜか喉の奥で止まった。


 いつもなら、事実を即答できたはずだった。だが今は、何かが引っかかって、出てこない。


 リゼは、俺の沈黙を、じっと待っていた。焚き火の熱とは違う何かで、頬がさらに赤くなっていくのが、分かる。距離は、いつもより近い。手を伸ばせば、触れられる位置に、彼女はいた。


「……あたしはね」


 リゼが、掠れた声で、続けようとした。その時。


 森の奥で、獣の、か細い声がした。


    *


 一瞬で、俺の体は戦闘態勢に切り替わった。剣の柄に手をかける。心を殺した体は、こういう時だけは、正確に、迷いなく動く。


 だが――その声は、威嚇ではなかった。


 弱々しい、鳴き声。俺は焚き火の枝を一本掴み、声のほうへ、静かに近づいた。リゼが後ろからついてくる。


 茂みの奥に、それはいた。


 一角狼の、子供だった。まだ生後まもない。後ろ脚に、罠にかかったらしい傷を負い、震えている。母狼の姿はない。


 俺は、子狼の耳の裏を確かめた。


 焼印は、なかった。


「……よかった」リゼが、ほっと息をついた。「この子、まだ、印を押されてないんだ」


「ああ。ただの、はぐれた子だ」


 俺は、傷の手当てを始めた。携帯していた薬草を噛み砕き、傷に当て、布で巻く。子狼は最初、俺を警戒して唸ったが――俺の目を見て、動きを止めた。


 いつもなら、獣は俺の目を見て、逃げる。俺の"空洞"を、本能で恐れて。


 だが、この子狼は、逃げなかった。じっと、俺の目を見て、それから、俺の指を、そっと舐めた。


「……逃げない」俺は呟いた。


「うん」リゼが、隣で微笑んだ。「この子、分かってるんだよ。あんたの目の奥に、ちゃんと光があること。……最近ね、あんたの光、大きくなってるもん。あたし、毎日見てるから、分かる」


 俺は、子狼を見た。震えは、もう止まっていた。俺の手のひらの中で、小さな命が、温かかった。


 手当てを終え、俺たちは子狼を、乾いた岩陰に寝かせた。朝になったら、森に返す。母狼が探しに来るかもしれない。来なければ、ギルドで保護を手配する。


「……ね、レイン」


 焚き火に戻り、俺の隣に座ったリゼが、小さく言った。


「さっきの続き、聞きたい?」


「聞きたい。だが――」


 俺は、彼女の言いかけた言葉を、遮った。理由は、自分でも、うまく説明できなかった。


「今夜は、いい。この続きは――ちゃんとした場所で、ちゃんと聞く。焚き火の勢いでも、獣の声の中断でもなく」


 リゼは、目を丸くして、それから、ふにゃりと笑った。


「……なにそれ。あんたが、そういうこと言うの、初めて」


「俺も、初めて言った。……たぶん、これも、名前のつけられないものの、ひとつだ」


「ふふ。……うん。いいよ。じゃあ、ちゃんとした場所で、聞く。約束ね」


 彼女は、そっと、俺の肩に頭を預けてきた。焚き火の匂いと、雨上がりの森の匂いと、彼女の髪の匂いが、混ざった。子狼の寝息が、静かに聞こえる。


 俺は、その夜を、帳面に書ける気がしなかった。


 書けない記録が、また一つ、増えた。それを損失として計上しない自分に、俺は、もう慣れ始めていた。


(次話:夕暮れの丘で、「ちゃんとした場所」の約束が果たされる。)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ