第34話 焚き火の夜
隣町へのお使いは、平和だった。
剣楽祭優勝の熱も、魔物乱入の騒ぎも、街道の初夏の風の中では、遠い出来事のように思えた。リゼは終始上機嫌で、鼻歌を歌い、道端の花を摘み、俺に「はい、優勝記念」と一輪、胸ポケットに挿した。
商業ギルドでの手続きは、滞りなく済んだ。問題は、帰り道だった。
「……降ってきたね」
昼過ぎから、空が暗くなった。夏の夕立だ。街道の脇の東屋で雨宿りしているうちに、遠くで地鳴りがした。雨で緩んだ斜面が、街道の一部を、土砂で塞いだのだ。
「これは……今日中には、抜けられないな」
迂回路は森を大きく回る。日が暮れる。無理に進むより、夜を明かして、朝に土砂の撤去を待つほうが安全だ。リゼの警報に聞くと、彼女も「うん、朝まで待ったほうがいい気がする」と頷いた。
森の入り口の、雨をしのげる岩陰。俺は手際よく焚き火を熾し、携帯食を分けた。護衛任務の野営は、手順が決まっている。手順どおりにやるだけだ。
――だが、その夜は、手順どおりにはいかなかった。
*
「……ねえ、レイン」
焚き火の向こうで、膝を抱えたリゼが、ぽつりと言った。夜番は交代制にしたが、彼女は眠る気配を見せず、さっきから、ちらちらと俺を見ている。
「先に寝ていい。俺が見てる」
「……嫌」
短い返事に、俺は視線を上げた。
「あんた一人にしたくないだけ。それだけ」
沈黙が落ちた。パチ、と薪が爆ぜる音だけが響く。焚き火の明かりが、リゼの頬を、赤く照らしている。火のせいだけでは、ないように見えた。
しばらくして、リゼが顔を上げた。いつもの快活さが鳴りを潜め、代わりに、ひどく真剣な目で、俺を見ていた。
「あんたにさ、ずっと聞きたかったこと、あるんだ」
「聞こう」
「あんたは、何も感じないんだよね。怖いとか、痛いとか、嬉しいとか」
「……昔は、そうだった。今は――少し、違う。名前のつけられないものが、増えた」
「そっか。……じゃあ」
リゼは、膝の上で、拳を握った。焚き火のせいだけではなく、頬が、さらに赤らんでいる。
「あたしのことも……何か、感じる?」
問いの意味を、俺はすぐには処理できなかった。処理できた瞬間、答えるべき言葉が、なぜか喉の奥で止まった。
いつもなら、事実を即答できたはずだった。だが今は、何かが引っかかって、出てこない。
リゼは、俺の沈黙を、じっと待っていた。焚き火の熱とは違う何かで、頬がさらに赤くなっていくのが、分かる。距離は、いつもより近い。手を伸ばせば、触れられる位置に、彼女はいた。
「……あたしはね」
リゼが、掠れた声で、続けようとした。その時。
森の奥で、獣の、か細い声がした。
*
一瞬で、俺の体は戦闘態勢に切り替わった。剣の柄に手をかける。心を殺した体は、こういう時だけは、正確に、迷いなく動く。
だが――その声は、威嚇ではなかった。
弱々しい、鳴き声。俺は焚き火の枝を一本掴み、声のほうへ、静かに近づいた。リゼが後ろからついてくる。
茂みの奥に、それはいた。
一角狼の、子供だった。まだ生後まもない。後ろ脚に、罠にかかったらしい傷を負い、震えている。母狼の姿はない。
俺は、子狼の耳の裏を確かめた。
焼印は、なかった。
「……よかった」リゼが、ほっと息をついた。「この子、まだ、印を押されてないんだ」
「ああ。ただの、はぐれた子だ」
俺は、傷の手当てを始めた。携帯していた薬草を噛み砕き、傷に当て、布で巻く。子狼は最初、俺を警戒して唸ったが――俺の目を見て、動きを止めた。
いつもなら、獣は俺の目を見て、逃げる。俺の"空洞"を、本能で恐れて。
だが、この子狼は、逃げなかった。じっと、俺の目を見て、それから、俺の指を、そっと舐めた。
「……逃げない」俺は呟いた。
「うん」リゼが、隣で微笑んだ。「この子、分かってるんだよ。あんたの目の奥に、ちゃんと光があること。……最近ね、あんたの光、大きくなってるもん。あたし、毎日見てるから、分かる」
俺は、子狼を見た。震えは、もう止まっていた。俺の手のひらの中で、小さな命が、温かかった。
手当てを終え、俺たちは子狼を、乾いた岩陰に寝かせた。朝になったら、森に返す。母狼が探しに来るかもしれない。来なければ、ギルドで保護を手配する。
「……ね、レイン」
焚き火に戻り、俺の隣に座ったリゼが、小さく言った。
「さっきの続き、聞きたい?」
「聞きたい。だが――」
俺は、彼女の言いかけた言葉を、遮った。理由は、自分でも、うまく説明できなかった。
「今夜は、いい。この続きは――ちゃんとした場所で、ちゃんと聞く。焚き火の勢いでも、獣の声の中断でもなく」
リゼは、目を丸くして、それから、ふにゃりと笑った。
「……なにそれ。あんたが、そういうこと言うの、初めて」
「俺も、初めて言った。……たぶん、これも、名前のつけられないものの、ひとつだ」
「ふふ。……うん。いいよ。じゃあ、ちゃんとした場所で、聞く。約束ね」
彼女は、そっと、俺の肩に頭を預けてきた。焚き火の匂いと、雨上がりの森の匂いと、彼女の髪の匂いが、混ざった。子狼の寝息が、静かに聞こえる。
俺は、その夜を、帳面に書ける気がしなかった。
書けない記録が、また一つ、増えた。それを損失として計上しない自分に、俺は、もう慣れ始めていた。
(次話:夕暮れの丘で、「ちゃんとした場所」の約束が果たされる。)




