第33話 決勝と乱入
決勝の相手は、隣接支部のB級冒険者、ドランという名の大剣使いだった。
歴戦の三十代。俺より頭ひとつ大きく、リーチも力も上。開始前、彼は大剣を担いだまま、俺を値踏みして、それから、にやりと笑った。
「小僧。お前の試合、全部見たぜ。……面白え剣を使う。だが、一つ教えといてやる。B級とそれ以下の差ってのはな、技じゃねえ。"場数"だ」
「知っている。だから、あんたから、場数を拾う」
「……言うじゃねえか」
合図が鳴った。
ドランの言葉は、正しかった。彼の大剣は、重いだけではなかった。一撃ごとに、俺の呼吸を、外してくる。斬撃と斬撃の"間"が、不規則なのだ。場数を踏んだ者だけが持つ、拍子の崩し。エルシアの虚実とも、カイムの生き汚さとも違う、老獪な、時間の使い方。
三合目で、俺の頬を、大剣の風圧が掠めた。五合目、俺は初めて、後ろに二歩、下がらされた。
(――いい。実に、いい)
観客は悲鳴を上げたが、俺の思考は、静かに沸いていた。この男の"拍子"は、教本にない。今、ここでしか、拾えない。俺は下がりながら、彼の呼吸の癖を、数えた。大剣が最も重くなる瞬間と、最も軽くなる瞬間。その間にある、彼だけの、揺らぎの周期を。
八合目で、数え終わった。
九合目から、俺は、彼の拍子の"裏"に、自分の拍子を置いた。ドランの眉が、初めて、動いた。
「……っ、おい、嘘だろ。もう、合わせてきやがった」
十二合。俺はドランの大剣を、柄頭で軌道からずらし、その胴に、木剣の切っ先を当てた。
「――一本! 勝者、レイン! 優勝!」
闘技場が、割れんばかりに沸いた。
ドランは、大剣を地に突いて、天を仰ぎ、それから、豪快に笑った。
「……はっ! 十二合で、俺の三十年を、盗みやがった。……小僧、覚えとけ。次に会う時までに、俺は、お前の知らねえ拍子を、また作っとくからな」
「ああ。楽しみにしてる。……場数を、ありがとう」
俺たちは、拳を、軽く合わせた。観客の歓声が、一段と、大きくなった。
観客席で、リゼが、フィノが、エルシアが、飛び跳ねている。カイムが指笛を鳴らし、セツが暗がりで、静かに拍手をしている。ガストンとノエルが、いつの間に来たのか、最前列で泣いていた。
灰色区の孤児が、剣楽祭で優勝した。
俺の胸に、名前のつけられない熱が、また一つ落ちた。
*
事件は、表彰式の最中に起きた。
俺が優勝の証を受け取り、闘技場の中央に立った、その時。
地の底から、地響きがした。
観客のどよめき。次の瞬間、闘技場の石畳が割れ、地下から、それが這い出してきた。
魔物だった。だが、尋常な魔物ではない。翼を持つ、蜥蜴に似た巨躯。全身が黒く変色し、目は濁った赤。そして――胸に、焼印。等間隔の直線と円弧。
四例目。だが、これは死骸ではない。生きている。
「に、逃げろ! 魔物だ!」
観客がパニックに陥る。数千の人間が、一斉に出口へ殺到する。将棋倒しになれば、魔物より先に、その圧死で人が死ぬ。
俺の頭は、瞬時に計算を終えていた。
魔物の翼。滞空の癖。突進の初動。全部、ワイバーンの巣で三十分観察したデータと、同じ骨格だ。あの夜、俺が積んだものが、今、役に立つ。
俺は、優勝の証を投げ捨て、闘技場の中央へ走った。魔物のほうへ。人々とは、逆へ。
「レイン!?」リゼの悲鳴。
「――全員、東の出口へ! そっちは開いてる! 西は詰まる!」
俺の声が、パニックの中を通った。恐怖のない声は、恐怖の中で、奇妙なほど響く。人の流れが、俺の指示で、少しだけ整理された。
そして俺は、魔物の前に立った。
*
倒すつもりは、なかった。木剣しかない。あるのは、時間を稼ぐ技術だけだ。ワイバーンの夜と、同じ作業。
魔物の突進を、俺は流水の足でいなした。滞空に移る初動を読み、影に入り、決して仕留めさせない位置を保つ。恐怖がないから、俺の判断は、頭上を掠める死の翼の下でも、一つも鈍らない。
「あの少年……! 逃げずに、一人で……!」
「魔物の攻撃を、全部いなしてる……! なんて、動きだ……!」
観客の避難が進む。魔物の注意が、完全に俺一人に向く。それでいい。数千人の代わりに、俺一人が的になれば、計算は合う。
だが、木剣では、決着はつかない。奴の焼き切れかけた体は、暴走している。長くは、保たない。
その時――風が、横から吹いた。
「――よくやった、坊主。あとは、俺がやる」
ヴォルフ=グランデール。剣聖が、抜き身の剣を提げて、俺の隣に立っていた。
「Sランクの、仕事だ。下がってろ」
だらりと下げた剣。あの半歩。
一閃。
魔物の巨躯が、地に沈んだ。ワイバーンの巣の夜、俺が三十分かけても仕留められなかった格の魔物を、ヴォルフは一秒で断った。
*
魔物の死骸に、ヴォルフは小瓶の液体を振りかけ、火を放った。いつもの、あの処理。
だが、俺は今日、彼の隣で、その一部始終を見ていた。
「ヴォルフ。この魔物、どこから来た」
「……闘技場の、地下だ。誰かが、放った。この人出のタイミングで、この場所に。……偶然じゃねえ」
「試験、だな」
ヴォルフの手が、止まった。
「お前が、群衆の中で、どう動くか。逃げるか、戦うか、指揮を執るか。……見られていた。あの焼印を放った連中に」
「気づいてたか」
「前払いの刺客。監査の書記官。焼印の魔物。全部、俺の『対処』を観察するための、負荷試験だ。相手は、俺が逃げないことを知っている。だから、追い込めば追い込むほど、俺の"データ"が取れる」
ヴォルフは、長い息を吐いた。疲れた、老いた剣士の息だった。
「……坊主。お前、王都に行くつもりだろ。御前試合に」
「行く。理由が、王都にある」
「そうか。……なら、俺も行く」
俺は、剣聖の横顔を見た。
「昔、な。俺は王都の騎士団にいた。旧王国流の、最後の世代だ。……ある日、上から命じられた。『暴走した実験体を、処理しろ』とな。焼き切れて、化物になった、元・人間の子供らを。俺はそれを、何人も斬った」
炎が、魔物の死骸を舐めている。
「斬りながら、思ったよ。こいつらは、被害者だってな。だが、命令は命令だ。俺は斬り続けた。……そして、逃げた。騎士団を抜けて、地方に流れて、ずっと、あの焼印を焼き消して回ってる。せめてもの、罪滅ぼしにな」
「あんたが、素振りをやめるなと言った理由は」
「……昔、一人だけ、焼き切れなかった被験体を見た。逃がした協力者がいてな。片目の、老いた傭兵だった。そいつが言ってたよ。『毎日、同じことを続けさせろ。心が空でも、体に"積む"習慣があれば、そいつは焼き切れない』とな」
片目の老傭兵。カイムと俺の、師。
「その爺さんの言葉を、俺はずっと覚えてた。だから、お前を見た時――お前の"何もない目"と、毎朝の千回を見た時、確信したんだ。お前は、あの爺さんが逃がして、"積む習慣"を仕込んだ、最後の子供だってな」
炎が、消えかけていた。
「王都には、あの実験の、全部の答えがある。……俺は、罪滅ぼしを終わらせに行く。お前は、自分の答えを、掴みに行く。同じ道連れだ。悪くねえだろ」
俺は、頷いた。
点が、また大きく、線になった。手記の主が、俺に千回を仕込んだ理由。俺が焼き切れなかった理由。全部が、王都の一点へ、収束していく。
「――レイン!!」
避難の混乱が収まった闘技場に、リゼの声が響いた。彼女は人混みをかき分け、まっすぐ俺のもとへ走ってきて、俺の胸に、思い切りぶつかった。
「ばか! ばかばかばか! 一人で魔物の前に立つなんて! 心臓、止まるかと思った……!」
「計算では、俺一人が的になるのが、最も死者が少ない」
「計算でも!! ……もう、あんたって人は……!」
リゼは俺の胸に額を押しつけて、震えていた。俺は、その頭に、そっと手を置いた。撫でる、という所作を、今日は、帳面の引用ではなく、自分の意思で。
「……無事だ。心配をかけた」
「……っ、うん。……うん」
ヴォルフが、そんな俺たちを見て、ふ、と笑った。
「……あの爺さんが逃がした子は、いい居場所を、見つけたみたいだな」
炎は、完全に消えていた。だが、俺の胸の空洞には、消えない熱が、確かに積もっていた。
(次話:二人きりの隣町行き。土砂崩れで、森の夜に。)




