第31話 フィノの鼻
準決勝は、翌日だった。
一日の空きがあれば、普通の選手は体を休める。俺は、いつも通り千回を振ってから、フィノの初討伐依頼に同行することにした。
「いいの!? おにいさん、試合の前の日なのに!」
「体は昨日の四戦で温まってる。落とすより、維持したほうが良い。それに――お前の初討伐に、同行を約束していた」
フィノの尻尾が、ぶわりと膨らんだ。素振りは、この半年で毎朝五百回まで伸びた。昨日の自分に勝ち続けた結果だ。初討伐の資格は、十分にある。
依頼は、グランヴェル近郊の森での、角猪の駆除。E級相当。フィノの脚力と嗅覚なら、危険は少ない。
*
森に入ると、フィノは水を得た魚だった。
「こっち! 角猪、三頭! 風下から回れば、気づかれない!」
指示が的確だった。俺が教えた「観察して、記録して、繰り返す」を、フィノは自分の鼻で実践していた。三頭の角猪を、俺たちは一頭ずつ、静かに仕留めた。フィノの棒きれ改めE級支給の短槍が、初めて魔物の血を吸った。
「やった……! フィノ、初討伐、成功……!」
尻尾をぶんぶん振る獣人の少女の頭を、俺は軽く撫でた。撫でる、という動作を、俺は最近覚えた。帳面の「他者を労う所作」の項から引いた。
「よくやった。昨日のお前より、強くなってる」
「えへへ……! おにいさんに褒められた……!」
帰り道、フィノがふと足を止めた。鼻を、すんすんと鳴らしている。
「……おにいさん。へんなにおい」
「魔物か」
「ううん。……こっち」
フィノが導いた先、森の窪地に、それはあった。
魔物の死骸だ。角のある狼――一角狼の、成獣。だが、死因が奇妙だった。外傷はほとんどない。まるで、内側から燃え尽きたように、体の中心が炭化している。
そして、左耳の裏に――焼印。等間隔の直線と円弧。三例目だった。
「これ……!」フィノが後ずさった。「おにいさんの、おくのにおいと、おなじ! それに――」
彼女は死骸の傍らの地面を、鼻で示した。
「ここ、人が来た。何人か。荷車で、なにか運んでった。……こげたにおいと、しろい石みたいなにおい。フィノの村と、おなじにおい!」
俺は死骸を検分した。炭化した中心部。焼印。そして、傍らに落ちた、割れた小瓶の破片。中に、白い粉が残っていた。
(回収作業の、途中か)
誰かが、この焼印の魔物を「処理」しに来ていた。ヴォルフが鎧熊を焼いたのと、同じことをする者たちが。だが、この死骸は炭化しているのに、まだ回収されず残っている。作業が中断されたのだ。何かに邪魔されて。
あるいは――俺たちが、来ることを、知っていて。
「フィノ。この場所を覚えておけ。だが、他の誰にも言うな。ギルドの報告書にも書かない」
「……こわい話?」
「まだ分からない。だが、お前の村の話と、繋がってる。それだけは確かだ」
フィノは尻尾を垂らして、それから、ぎゅっと拳を握った。
「フィノ、強くなる。もっと。おにいさんみたいに。……そしたら、村に何があったか、じぶんで突き止められる?」
「突き止められる。俺も手伝う。約束だ」
「……! うん!」
*
その夜、俺はセツを訪ねた。暗い酒場の隅、彼女の定位置。
「焼印の魔物の、三例目を見た。炭化していた。回収途中で、放置されていた」
セツの、薄い菫色の目が、ゆっくりと俺を捉えた。
「……あなた、どこまで気づいてるの」
「点が、いくつか。線には、まだ足りない。あんたは――知っているな。あの焼印が、何なのかを」
長い沈黙があった。セツは杯の酒を、揺らした。
「……あれはね。『失敗作』の印よ」
「失敗作」
「心を空にして、器にする。そこまでは成功する。でも――器に、力を注ぎ込みすぎると、内側から焼き切れる。あの炭化は、その痕。魔物に試して、失敗した個体。それを、あの焼印で管理してる」
彼女は杯を置いた。
「私はね、レイン。三百年前、その実験の……ごく初期の、被験体だったの」
*
俺は、無言で次の言葉を待った。
「まだ、あれが一人の魔導師の手慰みだった頃。私は、心を空にされた。エルフだから、長く保つと思われたのね。……でも、私は失敗作だった。心を空にされても、"力の器"にはならなかった。ただ、感情を失っただけ。三百年、眠れず、夢も見ず、味もしない、ただの抜け殻になった」
「それで――続けられなかった、と言ったのか」
「ええ。器になる者は、心を空にした状態を保ったまま、力を溜め続ける。私にはそれができなかった。溜まる前に、抜けていく。……でも、あなたは違う」
セツの目が、初めて、はっきりとした光を宿した。
「あなたは、心を空にされたのに――毎朝、千回、剣を振り続けた。空洞に、何かを積み続けた。私が『抜けていった』場所に、あなたは『積んでいた』。……だから、あなたは焼き切れない。あなたは、私たち失敗作の、誰も辿り着けなかった――」
彼女は、そこで言葉を止めた。
言うべきかどうか、迷う顔だった。三百年、感情を失った女の、迷い。
「……いえ。今は、言わない。あなたが自分で辿り着いたほうがいい。ひとつだけ言えるのは」
セツは立ち上がり、去り際に、俺の肩に手を置いた。三百年ぶりに誰かに触れる、というような、ためらいがちな手だった。
「あなたの千回は、間違ってない。誰に何を言われても、やめないで。……それが、あなたを『失敗作』にも『完成形』にもしない、唯一の道だから」
彼女は暗がりへ消えた。
完成形。エルシアの祖父の遺言と、同じ言葉。俺は、その言葉に挟まれた自分の位置を、静かに記録した。
失敗作でも、完成形でもない、第三の場所。
俺が毎朝、無自覚に積んできたものが、俺をそこへ運ぼうとしている。
明日は、準決勝。カイム戦だ。あの老傭兵の、もう一人の弟子。
積んだものを、また一つ、確かめる日になる。
(次話:準決勝。「兄弟弟子の手合わせだ。手加減はなしだぜ」)




