第30話 剣友
本戦一回戦。相手は、エルシア=クロフォードだった。
「くじ運がいいのか悪いのか、微妙なところね」
闘技場の中央で、エルシアは細剣を提げて、いつもの不敵な笑みを浮かべた。だが、その目の奥には、稽古の時とは違う光があった。剣友としてではなく、剣士として、俺を見ている目だ。
「言っておくけれど、今日の私は稽古の私と違うわよ。この一戦のために、うちの書庫を掘り返してきたんだから」
「旧王国流の図解か」
「ええ。あなたの手記の、"原典"のほうよ。あなたの型の弱点、全部書いてあったわ」
観客席で、リゼが両手を握りしめているのが見えた。応援したい相手が二人。彼女の複雑な顔を、俺は横目で記録した。
合図が鳴った。
*
エルシアは、変わっていた。
以前の彼女は、対人戦の速さと虚実で押す剣士だった。だが今日の彼女は、その速さに「型の理解」を上乗せしていた。俺の払い流しの角度を、事前に知っている。だから、流される方向に、あらかじめ次の一手を置いてくる。
「どう? 私、強くなったでしょう!」
三連撃を捌いた俺の耳元で、エルシアが弾んだ声を上げた。楽しそうだった。心の底から。
(強くなっている。確かに)
俺は、素直にそう認めた。認めて、そして――嬉しい、に近い何かが、胸をよぎった。
自分以外の誰かが積み上げた成果に、俺の胸が動く。かつてはあり得なかった反応だ。エルシアは剣友だ。剣友が強くなることが、俺の空洞に、小さな熱を落とす。
だから俺は、手を抜かなかった。全力の相手には、全力で応えるのが、積んだ剣への礼儀だ。
エルシアの研究は見事だった。俺の型の八割を、彼女は読み切っていた。だが、残りの二割――カイム戦で捨てた「型の外」の部分は、図解には載っていない。載るはずがない。あれは昨日、俺がこの闘技場で拾ったばかりの、俺だけの変数だからだ。
俺は、その二割で勝負を決めた。
払い流しと見せて、四分の一歩。図解の想定より半拍早い踏み込み。エルシアの細剣が、俺の残像を突いた瞬間、俺の切っ先は、彼女の首筋で止まっていた。
「――一本! 勝者、レイン!」
エルシアは、数秒、動きを止めた。それから、細剣を下ろし、悔しさと清々しさの混じった、いつもの顔で笑った。
「……最後の四分の一歩。あれ、図解になかったわ。あなた、また新しいのを拾ったのね。この短い間に」
「昨日、カイムから拾った」
「一戦ごとに強くなるって、反則じゃない?」エルシアは肩をすくめ、それから、剣を鞘に納めながら、声を落とした。「ねえ、レイン。負けたついでに、ひとつ話しておきたいことがあるの」
*
闘技場の裏、控えの回廊で、エルシアは真剣な顔で切り出した。
「あなた、優勝したら王都に行くのよね。御前試合に」
「そのつもりだ」
「なら、忠告。……王都には、気をつけて。特に、王家の"影の部署"にね」
俺は、帳面の頁を開く手を止めた。監査官コルネリアが言った、辿れない発行元。王家の直轄機関。ヴェルナーの目の紋章。
「知っているのか」
「クロフォード家は、それに潰されかけた家だから」エルシアの声が、硬くなった。「祖父の代の話よ。うちの祖父は、王国の宮廷魔導師だった。ある日、王家が秘密裏に進めている『ある研究』を知ってしまって……それを告発しようとしたの」
「告発は、どうなった」
「握り潰されたわ。祖父は失脚し、クロフォード家は中央から追われた。今の伯爵位は、辺境に押しやられた名ばかりのもの。……祖父は死ぬまで言っていたわ。『あの研究は、人の心を扱う、許されざるものだった』と」
人の心を、扱う研究。
俺の空洞。感情欠落。白い部屋。焼印の魔物。旧王国流の手記の主。全ての点が、その一言に向かって、静かに収束していく音がした。
「エルシア。その研究の名は」
「分からない。祖父も、最後まで教えてくれなかった。ただ、ひとつだけ、遺言みたいに繰り返していた言葉があるの」
彼女は、俺の目をまっすぐ見た。
「――『心を空にした器だけが、あれの完成形になる』」
回廊に、風が抜けた。
心を空にした器。それは、俺のことだ。俺自身の存在が、今、その言葉によって、名指しされた気がした。
「……レイン? 大丈夫? 顔は動いてないけど、なんだか、今――」
「エルシア」
俺は、彼女の言葉を遮った。声は、いつも通り平坦だった。だが、その平坦さの下で、思考は今までにない速度で回っていた。
「その話、他の誰かにしたか」
「まさか。家の恥だもの。……あなただから、話したのよ」
「なら、しばらく誰にも話すな。特に、王都から来た人間には」
エルシアは、俺の様子から何かを察したらしい。追及はせず、静かに頷いた。
「……あなた、その研究と、何か関係があるのね」
「まだ、分からない。だが――」
俺は、控えの窓から見える闘技場を眺めた。観客席で、リゼが、フィノが、こちらに手を振っている。にぎやかな、俺の"気づいたら"できていた居場所。
「――分かった時に、逃げ隠れするつもりはない。積んだものが、そのための力になる」
「ふふ。あなたらしい」エルシアは笑って、それから、細剣の柄を、俺の胸に軽く当てた。「決めたわ。私、あなたの剣友として、その先まで付き合う。クロフォード家の因縁も、あなたの謎も、まとめて見届けさせてもらうから。……光栄に思いなさい?」
「稽古相手が一人増えるのは、こちらにも利がある」
「そこは『心強い』って言うところでしょ!?」
回廊に、二人の声が響いた。控えの奥で、次の準決勝の呼び出しが始まっていた。
俺の対戦相手は――カイム。あの、片目の老傭兵の、もう一人の弟子だった。
(次話:兄弟弟子、激突。)




