第3話 千回の理由
夜明け前の裏庭は、まだ藍色に沈んでいる。
千回の型稽古は、最初の三百回で体を起こし、次の四百回で昨日までの動きを確かめ、残りの三百回で新しいものを試す。十年続けるうちに、自然とそういう配分になった。
今朝の「新しいもの」は、昨日ヴォルフから盗んだ半歩だ。
(踏み込みは足裏全体。呼吸は、吸いと吐きの中間で止める)
八百二十一回目。まだ違う。俺の半歩は、地面を「蹴って」いる。あの男の半歩は、地面に「置いて」いた。
八百九十六回目。少し近づいた。重心の落ちる位置が、爪先から土踏まずへ寄った。
(今日はここまでだ。明日は、ここから)
焦りはない。焦るという機能が俺にはない。ただ淡々と、昨日の自分との差分だけを記録していく。この十年、俺がやってきたのはそれだけだ。
千回目を振り終えて、俺は木剣を下ろした。視線を感じて二階の窓を見上げると、案の定、リゼが窓枠に頬杖をついてこちらを見ていた。目が合うと、彼女は小さく手を振ってくる。
毎朝のことだ。俺は小さく頷きだけ返して、井戸へ向かった。
*
汗を流したあと、俺は寝床の藁の下から手記を取り出した。
もう表紙は千切れかけ、頁は手垢で黒ずんでいる。それでも不思議と、中の文字だけは滲みひとつなく読めた。安物のインクなら、十年でとうに掠れているはずなのに。
『型は一日千回。欠かすな。理由は問うな』
理由を問うな、と書いた人間は、つまり理由を知っていたということだ。そのことに気づいたのは、割と最近のことだった。
もうひとつ、この手記には妙なところがある。
最後の頁が、開かないのだ。
紙が糊で貼りついているのとは違う。頁と頁の間に指をかけても、まるで一枚の厚紙のように、境目そのものが存在しないかのように開かない。破ろうとしたことも一度あるが、貧民街のガキの握力でも、大人になりかけた今の膂力でも、結果は同じだった。
(開かないものは、開かない。考えても仕方がない)
俺は手記を藁の下へ戻した。
――お前は、忘れたままでいい。
ふと、婆さんの最期の言葉が浮かんだ。手記を読んでいると、たまにこうなる。何の脈絡もなく、あの皺だらけの手の重さを思い出す。
忘れたままでいい、と言われても、俺には忘れた覚えのある記憶がない。三歳より前のことなど、誰だって覚えていないものだろう。
それだけの話だ。
*
「――おい、そこの。灰色区の犬」
昼、ギルドの資材搬入をしていた俺に、その声は投げられた。
振り返ると、絹の服を着た同年代の少年が、取り巻きを三人連れて立っていた。金髪を丁寧に撫でつけ、腰の剣は装飾ばかり立派な代物。
ギルベルト=ヴァルディア。子爵家の跡取りで、最近この支部に出入りするようになった「冒険者ごっこ」の坊ちゃんだ。下働き仲間がそう呼んでいた。
「聞こえなかったか? 犬。その資材、こっちの馬車に先に積め。ヴァルディア家の依頼の方が、薄汚い平民の荷より優先だ」
昨日の一件以来、俺に向けられる視線が変わったのが、この坊ちゃんには気に食わなかったらしい。声が普段より大きい。周囲に聞かせる声だ。実際、酒場の窓から何人もの冒険者が顔を出している。
「搬入順はギルドの受付が決める。俺に言っても変わらない」
「……は?」
「口答えではなく、手順の説明だ。変更したいなら受付に行け。二番窓口が空いている」
窓際で誰かが吹き出した。ギルベルトの顔が朱に染まる。
「き、貴様……! 昨日ちょっと目立ったからと、調子に乗るなよ下民が! この俺はヴァルディア子爵家の――」
「知っている。だからこそ勧めている」
俺は資材を担いだまま、事実だけを積んだ。
「子爵家の依頼が本当に急ぎなら、手順を飛ばして俺に絡んでいる今この時間が、一番の損失だ。二番窓口までは歩いて二十歩。俺との問答は、もう四十歩ぶん無駄になっている」
「……っ、ぐ……!」
「それと、その剣」
俺は坊ちゃんの腰の装飾剣を見た。
「鞘の金具が緩んでる。飾りで吊るすには重すぎる剣だ。転んだ時に足を切る。職人に見せることを勧める」
ギルベルトは真っ赤な顔で口を開き、閉じ、また開き――結局、何も言い返せずに踵を返した。
「お、覚えてろ! 灰色区の犬風情が……!」
取り巻きを引き連れて去っていく背中に、酒場の窓から遠慮のない笑い声が降り注いだ。「二番窓口だってよ」「歩数まで計算してやがる」「あの坊ちゃん、明日から窓口の前を通れねえな」
俺は搬入作業に戻った。復讐でも意趣返しでもない。事実を並べただけだ。事実は時々、剣より刺さるらしい。これも記録しておく。
*
「――なにそれ!! 聞いた聞いた! 二番窓口!!」
夕方、リゼが受付カウンターを叩いて大笑いし、それから急に真顔になった。
「……って、笑いごとじゃない! 相手、子爵家だよ? 仕返しとかされたら……」
「されたら、その時に対処する。まだ起きていないことに、心配という経費を払う趣味はない」
「あんたはそうでも! あたしは払うの! 勝手に払うの!」
リゼはカウンター越しに身を乗り出して、俺の袖を、いつもより強く掴んだ。
「あのね、レイン。あんたが自分のために怒れないなら、その分あたしが怒る。あんたが自分の心配をしないなら、その分あたしが心配する。ずっとそうするって決めてるの。……文句ある?」
「非効率だ」
「効率の話じゃないもん」
彼女はふん、と鼻を鳴らして、それから、ふと窓の外の依頼板を見た。
「あ、そうだ。マスターが言ってたよ。あんた、そろそろ冒険者登録の試験、受けてみないかって」
冒険者登録。下働きから、依頼を受ける側へ。
「規定では十二歳からだろう。孤児は一、二年遅れるのが慣例のはずだ」
「マスターが推薦状書くって。……ね、受けなよ。あんたの千回、そろそろ外に出してあげる頃だと思う。あたしが毎朝見てきたんだから、間違いないよ」
彼女は言い切って、笑った。
自分のために怒れない俺の分まで怒る、と彼女は言った。俺の千回に太鼓判を押す、とも。その言葉は例によって、俺の中の動かないはずの何かに、小さな振動を残していった。
振動は、記録できない。数値にも回数にも換算できない。俺の知る限り、この世界でそれができないのは、彼女に関することだけだ。
――それだけの話、なのだろうか。
その夜、初めて語尾に疑問符がついた。俺はそれも、記録だけして眠った。
(次話:試験官の測定水晶、まさかの「無色」。)




