第2話 Sランクの背中
ギルド「灰色の鷲」の前広場に、これほど人が集まるのを初めて見た。
「来たよ、レイン! あっち、あの人!」
リゼが俺の袖を引いて、人垣の隙間を指差す。
視線の先に、その男は立っていた。
ヴォルフ=グランデール。Sランク冒険者、通称“剣聖”。歳は四十絡み、着古した外套に、飾り気のない一本の剣。それだけの出で立ちなのに、広場の空気が男を中心に張り詰めている。
今回の依頼は、街道近くに現れた変異種の鎧熊の討伐。本来なら討伐隊を組む案件を、ヴォルフは単独で受けた。マスターの計らいで、俺たち新人と下働きは後方からの見学を許されている。
「ほんもののSランク、初めて見た……」
隣のリゼの声が上ずっている。周りの新人たちも同じだった。数十歩先にいるだけの男の気配に、みんな呑まれている。
俺はと言えば、いつも通りだった。畏怖も興奮も湧いてこない。ただ――目だけは、離せなかった。
(歩き方が、違う)
重心が上下しない。踵から爪先まで、地面との接点が途切れる瞬間がない。手記の型で言えば「流水の足」の完成形。俺が三年かけてまだ届かない領域を、あの男は歩くという日常動作の中で、無造作にやっている。
(見て、盗む。それだけの機会だ)
*
討伐は、街道脇の森の入り口で行われた。
見学組は魔除けの結界石の内側から動くなと厳命されている。リゼは俺の袖を掴んだまま、さっきから一度も離していない。
やがて、森の奥から地響きがした。
現れた鎧熊の変異種は、資料の倍はあった。体高およそ五メートル。背中の甲殻が黒く変色し、目は濁った赤。その咆哮だけで、見学組の何人かが尻餅をついた。
――そして、事故が起きた。
「ひっ……あ、ああああ!!」
恐慌に呑まれた荷運びの少年が一人、あろうことか結界石の外へ、転がるように走り出したのだ。恐怖は人を竦ませるか、逃がすかのどちらかだ。奴の逃走方向は最悪だった。開けた街道側――鎧熊の視界のど真ん中。
変異種の濁った目が、動くものを捉えて、ぐるりと回った。
「だ、誰か! 誰か止め――」
誰も動けなかった。当然だ。あの咆哮の圏内で、まともな警報を持つ人間の足は動かない。
俺の警報は、生まれつき壊れている。
俺は結界石を越え、五歩で少年に追いつき、襟首を掴んで引き倒した。同時に自分ごと街道脇の窪地へ転がり込む。頭上を、突進の風圧が通過した。土砂と枝が降る。少年が悲鳴を上げる。
「舌を噛む。黙れ」
窪地から顔だけ出して、俺は状況を計算した。鎧熊は突進の勢いのまま、俺たちを通り過ぎている。旋回には巨体ゆえ四秒かかる。結界石までは走って六秒。足りない。なら――
足りない二秒は、向こうが埋めてくれた。
「――よく見た、坊主」
風が、横から吹いた。
旋回を終えた鎧熊と俺たちの間に、いつの間にか、外套の男が立っていた。だらりと下げた剣。あの半歩。
一閃。
音は、後から来た。巨体が地面に沈み、土煙が上がって、それきり動かなくなった。
一秒に満たない攻防だった。見学組は誰も何が起きたか分かっていない。歓声すら、数拍遅れて上がった。
俺は歓声には加わらず、いま見たものを頭の中で百回繰り返していた。呼吸は吸いでも吐きでもない中間で止めていた。踏み込みは踵からではなく足裏全体。剣の入射角はおよそ三十度――手記の型「第七・断ち割り」の変形だ。原型を知っているから、変形の意味が読める。
(明日の千回に、組み込む)
*
歓声が続く中、ヴォルフは倒した熊の傍らに屈み込んで、動きを止めた。
熊の胸元の毛を掻き分け、何かを確かめている。俺の位置からは遠かったが、俺の目は貧民街の暗がりで鍛えられている。見えた。
焼印のような、幾何学的な紋様。
自然の傷でも、魔物の模様でもない。等間隔の直線と円弧で構成された、明らかに人為的な印だった。
ヴォルフは短く何かを呟くと、懐から取り出した小瓶の液体を死体に振りかけ、火を放った。素材として売れば金貨が積まれるはずの変異種の死体を、惜しげもなく。
風向きの加減で、呟きの断片だけが俺の耳に届いた。
「……また、か」
また。つまり、初めてではない。
俺はその言葉を、意味の分からないまま、いつもの通り記録として頭の隅に置いた。
*
「――さっきの下働き、どこだ」
帰還した広場で、剣聖の声が響き、ざわめきが一瞬で凪いだ。
人垣が割れる。ヴォルフはまっすぐ俺の前まで歩いてきて、値踏みするように見下ろした。周囲の視線が突き刺さる。リゼが俺の袖を、ぎゅうっと握った。
「名前は」
「レイン」
「あの状況で、結界を出た。怖くなかったのか」
「間に合う計算だったので」
「……計算、ときたか」
ヴォルフは面白くもなさそうに鼻を鳴らし、それから、探るように問いを重ねた。
「なら聞くが。俺の討伐、お前はどこを見ていた」
「足の運びと、踏み込みの半歩と、剣の入射角。それと――呼吸を止める位置」
広場が、ざわ、と揺れた。
「他の連中は、剣の光と死んだ熊しか見ていない。お前は工程を見ていたわけだ」
「工程が分かれば、繰り返せる。繰り返せるものは、身につく」
「ほう」
歴戦の剣士に間近で見据えられれば、大抵の新人は硬直する。俺の心拍は、一つも乱れなかった。
「いい目をしてる、と言いたいところだが」
男は目を細めた。
「……いや。“何もない”目、か」
それは賞賛でも侮蔑でもない、何かを確かめるような声だった。ヴォルフはそれ以上何も言わず、外套を翻して去っていった。
残された広場のざわめきは、もう俺の知っているざわめきではなかった。「あの下働き、何者だ」。視線の種類が、今日を境に変わった。
「ちょっ、ちょっとレイン! 剣聖と喋ってた!? しかもさっき、あんた飛び出して……! 心臓止まるかと思ったんだから!」
すっ飛んできたリゼに袖を掴まれながら、俺は答えた。
「間に合う計算だった」
「計算でも!! ……もう。……でも、あの子を助けたのは、えらい。うん。えらいから、今日は特別に、夕飯おっきいの作ったげる」
「なぜお前が作る」
「作りたいから作るの! 文句は食べてから!」
根拠のない断言。いつもの彼女の癖だ。だが、その言葉はまた、俺の中の何かに小さな振動を残した。
明日も、日が昇る前に千回。今日見たものを、この体に刻む。俺にできるのは、昔からそれだけだ。
――それだけの話だ、と。
この時の俺は、まだそう思っていた。
(次話:貴族の坊ちゃん、下働きに絡んで恥をかく。)




