第1話 痛みには慣れている
物心ついたときには、もう何も感じなくなっていた。
前世の記憶――怒鳴り声、閉め出された夜の玄関、殴られたことより、殴られても驚かなくなった自分の方が怖かったこと。心を殺せば楽になる。それだけが、あの頃の俺が見つけた唯一の処世術だった。
だから二十六歳で命を落として、気づいたら赤ん坊としてこの世界に転生していた時も、俺は驚かなかった。
「――また貧民街か」
そう呟いた声は、まだ舌足らずな幼児のものだった。
俺を拾って育てたのは、名前も知らない老婆だった。なぜ拾われたのかは聞きそびれた。老婆は多くを語らない人で、ただ、死の間際に一度だけ、俺の頭に皺だらけの手を置いてこう言った。
「――お前は、忘れたままでいい」
何を、とは言わなかった。それが老婆の最期の言葉だった。俺が三歳になる年の冬だ。
その後は路地裏で残飯を漁り、盗人に殴られ、寒さで指の感覚を失いかけたこともある。普通の子供なら泣き叫ぶような日々を、俺は静かに受け止めていた。
(前世に比べれば、親じゃない分マシだ)
ステータスを開いても、俺のそれは大層な名前などついていない。
【体質】感情欠落
たったそれだけ。効果の説明もない。攻撃力が上がるわけでも、成長速度が速くなるわけでもない。ただ、恐怖で足がすくむことも、慢心で油断することも、失敗を悔やんで手が震えることも、俺には起きないというだけだ。
――後に俺は知ることになる。この「説明のない体質」の正体を。国がこれを三十年隠し続けた理由を。そして、これから始める毎朝の日課が、本当は何から俺を守っていたのかを。
だがそれは、ずっと先の話だ。
*
七歳の冬、路地裏で拾った傭兵の手記に「剣術の型」と「魔力循環の基礎」が書かれていた。誰の持ち物だったのかは知らない。俺の寝床のすぐ脇に、まるで届け物みたいに落ちていた。
手記の最初の頁には、こう書き殴られていた。
『型は一日千回。欠かすな。理由は問うな』
理由を問う気は、最初からなかった。何かに没頭している間だけ、余計なことを考えずに済む。空っぽの心には、詰め込む作業が必要だった。それだけの理由で、その日から毎朝、日が昇る前に型稽古を千回。魔力循環は正しいやり方が分からず何度も血を吐いたが、それも「今日はここまでできた」という記録として処理した。
人は普通、三年も同じ苦行を続ければ心が折れる。だが俺には、折れるための心がそもそも残っていなかった。だから続いた。それだけの話だ。
十歳になる頃には、冒険者ギルド「灰色の鷲」の下働きとして雇われるくらいには、体が出来上がっていた。
*
「だからよぉ! 酌のひとつくらい、いいだろうが!」
その日の夕方、ギルド併設の酒場に、濁声が響いた。
流れ者のC級冒険者だった。昼から飲み続けて出来上がった赤ら顔が、受付カウンターから出てきた少女の手首を掴んでいる。
「は、離してください! 受付は酌婦じゃありません!」
「固えこと言うなって、なあ?」
亜麻色の髪をひとつに結んだ、青いリボンの少女――リゼ。ギルドマスターの娘で、受付見習いをしている俺と同い年の少女だ。酒場の連中が腰を浮かせかけたが、相手はC級。腕自慢の流れ者に、下手に手を出せる者はいない。
俺は薪の束を置いて、二人の間に歩いていった。
「離せ。受付業務の妨害はギルド規約第九項違反だ」
「ああ? 何だお前……下働きのガキが、引っ込んで――」
男の空いた手が、俺の襟へ伸びた。
その手首を、俺は途中で摘まんで、止めた。
「……あ?」
男が力を込める。動かない。顔が赤から白に変わり、男はリゼを離して、俺に全体重をかけてきた。C級の膂力だ。並の大人なら吹き飛ぶ。
だが、俺は毎朝千回、十年間、剣を振ってきた。握力と体幹は、俺の商売道具だ。
「がッ……!? な、なんだこのガキ、腕が、動かねえ……!」
「深呼吸を勧める。あんたの心拍は今、酒と怒りで上がりすぎてる。その状態で力比べは、心臓に悪い」
「ふ、ふざけ――」
男が空いた手で殴りかかってくる。俺は掴んだ手首を軸に半歩ずれた。それだけで男の拳は空を切り、酔いの回った体は勝手に均衡を失って、床に転がった。
酒場が、静まり返っていた。
俺は倒れた男の襟を整えてやり、事実だけを付け足した。
「転んだだけだ。誰も見ていない。今のうちに宿へ帰ることを勧める」
男は俺の顔をまじまじと見て――何かに気づいたように顔色を失くし、這うように酒場を出ていった。恐怖は生存本能の警報だ。まともな警報を持っている人間は、俺の目を近くで見ると、大抵ああなる。
「……おい、今の見たか」「下働きの坊主だろ、あれ」「C級を、指一本で……?」
ざわめきを背に、俺は薪の束を担ぎ直した。騒ぎは終わった。仕事に戻るだけだ。
「――ちょっと! レイン!」
戻れなかった。リゼが袖を掴んだからだ。
「ありがと、じゃなくて! 無茶しないでよ! 相手、C級だよ!? 怪我したらどうすんの!」
「怪我はしてない」
「結果論!! ……もう。……ばか。……ありがと」
三つの感情を三秒で通過して、リゼは俺の袖をきゅっと握った。ギルドの他の男性冒険者には営業用の愛想笑いひとつで対応する彼女が、俺にだけはこうして遠慮なくくっついてくる。理由は、俺には分からない。
「あんた、いつも顔が動かないから……今も、怖くなかったの?」
「怖いという機能が、俺にはない」
「……うん。知ってる。知ってるけどね」
リゼは俺の袖を掴んだまま、まっすぐに俺を見上げた。
「あんたがどんな顔しても、あたしにはちゃんと分かるんだから。――今のあんた、ちょっとだけ、怒ってた。あたしの手首のとこ、見た瞬間」
怒っていた? 俺が?
自分の内側を検分する。心拍、平常。呼吸、平常。だが――男の手がリゼの手首を掴んでいるのを見た瞬間、俺の足は、計算より半歩早く動いていた。あの半歩の出所を、俺は自分で説明できない。
根拠なんてどこにもないはずの彼女の言葉が、何故か俺の中に、小さな棘のように残った。
「――そうだ、聞いて! 今日、ギルドにSランクの依頼が来たんだって。マスターが、新人にも見学させるって言ってた」
リゼが声を弾ませる。
「レインも見に行くでしょ? あたし、一緒について行くから」
「勝手にしろ」
「勝手にするもん」
軽口に、俺は淡々と頷いた。感情という重荷を捨てた心に、彼女の声だけが、何故かいつも小さな振動を残していく。
それが何なのか、この時の俺は、まだ知らない。
俺の空洞に正体があることも。毎朝の千回が何を意味していたのかも。そして、この少女の「分かるんだから」が、ただの口癖ではなかったことも。
――全部、これから始まる話だ。
(次話:Sランク冒険者“剣聖”、来訪。)




