第26話 リゼの記録簿
監査三日目の午後、総括の席は酒場を借り切って開かれた。
マスター、副長、受付主任、そして参考人として呼ばれた俺とリゼ。コルネリア=ハウゼンは分厚い監査調書を机に置き、事務的に読み上げを始めた。
「監査結果。当支部の規定運用、百四十二件を確認。うち百四十件、正当。二件、軽微な書式不備。是正勧告のみ。――以上が、当初の監査対象です」
マスターが息を吐きかけ、コルネリアの「当初の」という言い方に、眉を上げた。
「……当初の、とは」
「監査の過程で、別件の重大な規定違反を発見しました」
酒場が、しん、となった。コルネリアは調書の後半を開いた。
「本年度、指名依頼一件について、担当者変更が行われています。依頼番号三一七。西の岩山、ワイバーン級の巣の調査」
――ギルベルトの、横取りだ。
「指名依頼の担当変更には、規定上、依頼主の書面同意が必須。しかし当該件の変更記録には、本部決裁の印しかない。依頼主の同意書が、存在しません」
コルネリアの目が、初めて感情らしきものを乗せた。冷たい、職業的な怒りだった。
「これは支部の違反ではありません。本部決裁を強行した側――圧力をかけたヴァルディア子爵家と、それに屈した本部担当官の違反です。さらに」
彼女は頁をめくった。
「変更後の依頼は遂行に失敗し、救助要請が発生。救助費用は本来、失敗した受任者の負担となるところ、ヴァルディア家は未払い。加えて、変更前の正当な受任予定者――そこの彼は、報酬機会を不当に失っている」
全員の視線が俺に集まった。俺は事実だけ答えた。
「失った認識はありません。別の依頼を受けたので」
「あなたの認識は問題ではありません。規定の問題です」
ぴしゃりと言い切られた。正しい。この監査官の言葉は、聞いていて心地がいい。
「――ただし」
コルネリアは、そこで初めて、調書から顔を上げた。
「この違反の立証には、通常、数ヶ月の照会が必要でした。依頼主の証言、当時の受付記録、時系列の突き合わせ。それが今回、三日で完了した理由を、報告書に特記します」
彼女が取り出したのは、一冊の帳面だった。表紙に花の押し模様がある、受付用の記録簿。
「受付見習いリゼ=ヴェイルの業務記録簿。全依頼の受付時刻、対応者、依頼主の要望の原文、変更経緯の逐語記録。……本部の正規書式より、精度が高い。私は十二年監査をしていますが、この水準の一次記録は初めて見ました」
リゼが、椅子の上で硬直した。
「え、あ、あの、それは、その」
「なぜこの水準の記録を? 規定では、ここまで求められていません」
「え、えっと……」
リゼは真っ赤になって、ちらりと俺を見て、助けを求める相手として最悪の人選をしたことに気づいたのか、さらに赤くなって、絞り出した。
「……み、見習いだから、規定の書き方がまだ分かんなくて。ぜんぶ書いておけば、あとで規定に合わせられるから、その、ぜんぶ書いてただけで……」
「なるほど。全数記録は、あらゆる書式に優越する。――正しい」
コルネリアは頷き、調書を閉じた。
「監査総括。当支部の運用は健全。特記事項二件。一、規定第十二項の運用は本部が見習うべき事例。二、受付見習いリゼ=ヴェイルの記録手法を、本部研修の教材として推薦する。……以上です」
一拍おいて、酒場が沸いた。
「うおおお! 嬢ちゃん、本部の教材だってよ!!」「でかしたリゼちゃん!!」「今夜は宴だ!!」
胴上げされかけるリゼと、それを規定違反の可能性で制止しようとするコルネリアと、構わず樽を開けるガストン。マスターは天井を仰いで、長い長い息を吐いていた。
*
「――あのね! 聞いた!? 教材だって! あたしの記録簿!」
宴の隅、リゼが頬を上気させて俺の隣に滑り込んできた。
「聞いた。この耳で」
「えへへ……えへへへ……。ね、ね、あたし、役に立った? 今回は、あんたの警報とかじゃなくて、あたしの仕事で、あんたの依頼のこと、ちゃんと」
「ああ」
俺は杯を置いて、彼女に向き直った。こういう時に使うべき言葉の記録は、帳面に揃っている。だが今日は、記録を参照する必要がなかった。参照より先に、言葉が出た。
「お前の積んだものが、俺を守った。……俺の千回と、お前の記録簿は、同じものだ」
リゼは目を見開いて、それから、今日一番の顔で笑った。
「……! そうでしょ! そうなの! あんたの帳面とあたしの記録簿、どっちも、積むやつが勝つの!」
「ああ。積むやつが勝つ」
杯を軽く合わせた。彼女の杯は果実水で、俺のは水だったが、乾杯の成立要件は液体の種類ではないらしい。
*
宴の輪の外で、コルネリアが荷物をまとめていた。俺は水差しを持って、礼を言いに行った。
「監査官殿。公正な仕事に、礼を」
「職務です。礼には及びません」
彼女は即答し、それから、荷物の手を止めずに、声だけを落とした。
「……一つ、監査外の忠告を。あの書記官は、本部の名簿に存在しません」
「――」
「王都からの『同行命令』は正規の書式で来ました。発行元は、辿れませんでした。私に辿れない発行元は、この国に三つしかない。王家の直轄機関です」
コルネリアは荷物を締め、初めて俺の目をまっすぐ見た。
「あなたの何がそれほど重要なのか、私は知りません。知る権限もない。ただ――記録は、あなたを守ります。今日のあの記録簿のように。積みなさい。人には言えないことほど、正確に」
「……肝に銘じます」
「けっこう」
監査官は帽子を目深にかぶり、馬車へ歩いていった。最後まで、私情のない、いい歩き方だった。
ヴェルナーの姿は、朝から、どこにもなかった。
(次話:リゼの誕生日。無感情の男、初めての贈り物に挑む。)




