第25話 灰色の目
接触は、監査二日目の昼に来た。
「――やあ。レイン君、でしたね」
裏庭で装備の手入れをしていた俺の前に、ヴェルナーは音もなく現れた。歩幅が常に一定の男の足音は、覚えてしまえば聞き取れる。三十歩前から気づいていたが、気づかないふりをした。
「これは書記官殿。監査は建物の中では」
「ええ、ええ。ハウゼン殿の領分ですからね。私はほら、実情の取材というやつで。……いやあ、それにしても」
男は切り株に断りなく腰を下ろし、にこやかに俺を見上げた。
「君、D級最速だそうですね。大したものだ。さぞ毎日、充実しているでしょう」
「仕事があるのは、ありがたいことです」
「はは、模範解答だ。……時に君、夜はよく眠れますか?」
来た。
世間話の口調。だが、この問いをこの並びで聞くのは、二度目だ。セツの三つの質問。眠れるか。夢は見るか。味はするか。あれが個人の癖でないなら、あれは――検査項目だ。
俺は、演技を始めることにした。
素材は、ある。二年ぶんの帳面。人が感情を表に出す時の、何百という観察記録。使ったことはなかった。使う日が来るとも思っていなかった。だが、記録は使うためにある。
「眠れますよ。……あ、でも」
俺は手入れの手を止め、視線を右上へ逃がした。照れを含む回想の視線。ノエルが武勇伝を語る時の型だ。
「昇格の前の晩は、ちょっと駄目でしたね。そわそわして。子供っぽいですけど」
「ほう。そわそわ」
「書記官殿は笑うかもしれませんが、朝の素振りの回数を数え間違えるくらいで。悔しくて二度寝もできませんでした」
語尾に、息だけの笑いを乗せる。ガストンが照れ隠しをする時の型。ヴェルナーの灰色の目が、僅かに細くなった。
「夢なんかも、見るんでしょうな。若い人は」
「見ます。この前は、大会で優勝する夢を。気が早いって、受付の子に笑われました」
「ははあ、なるほど、なるほど」
男は膝を打って笑った。笑いながら、目だけが笑っていなかった。測っている。俺の答えの内容ではなく、答える時の間、瞬きの数、指の動き。
だから俺は、全部に「揺らぎ」を混ぜた。瞬きは平常より一つ多く。指は時々、意味もなく腕紐に触れる。答えの間は、一定にならないよう、わざと不揃いに。
十年、感情のない人間として生きてきた俺が、感情のある人間の演技をしている。皮肉な話だ、と思考の隅で処理して、ふと気づいた。「皮肉な話だ」という感想そのものが、以前の俺には出なかった種類のものだ。
「――いや、失敬。長話を」
やがてヴェルナーは立ち上がり、外套の埃を払った。
「地方の若い才能の、生の声が聞けた。報告書が華やぎますよ。それでは」
男は数歩進み、そして、足を止めた。
振り向いた顔は、まだにこやかだった。
「ああ、そうそう。言い忘れておりました」
「はい」
「――素振りは、まだ千回かね?」
風が、裏庭の草を撫でた。
俺は自分の内側を高速で検分した。心拍、平常。呼吸、平常。表情筋、動いていない。揺らぎは、ない。だが思考だけが、最大速度で回っていた。
素振りの習慣は、ギルドの人間なら誰でも知っている。だが「千回」という数字を、俺は監査の間、誰にも言っていない。この男がここに来て二日、俺の素振りを見た者は、フィノとリゼだけ。二人があの男と話していないことは、確認済みだ。
つまりこの男は、来る前から知っていた。
「……ええ。千回です。子供の頃からの、ただの癖ですが」
「けっこう、けっこう。継続は力なり、です。……いやはや、実に、けっこう」
男は帽子を軽く持ち上げ、今度こそ去っていった。一定の歩幅で。音もなく。
俺は手入れの続きに戻った。手は正確に動いた。動かしながら、頭の中の帳面に、太い字で書いた。
『ヴェルナー。「千回」を事前に知っていた。俺の情報は、ずっと以前から、どこかに記録され続けている。――観察されていたのは、この二日ではない。おそらく、この十年だ』
*
その晩、俺は久しぶりに、手記の最初の頁を開いた。
『型は一日千回。欠かすな。理由は問うな』
理由を問うな、と書いた人間は、理由を知っていた。そして今日、「千回」を知る人間が、もう一人現れた。書いた側と、知っていた側。この二つが同じ側とは、限らない。
むしろ――逆の側、という可能性の方が、辻褄が合う。
守るために書いた者と、測るために見ている者。
俺は手記を閉じ、藁の下へ戻した。窓の外、二階のあの窓には、まだ灯りがついていた。今夜も彼女は、寝る前に何かを書いているのだろう。あの灯りの色を、俺は知らない。だが、あの灯りが「塗りつぶしたなんにも」の対極にあることだけは、確信していた。
監査は、明日で終わる。
終わってから、が本番だ。そんな気がした。
(次話:監査最終日。リゼの記録簿が、爆弾になる。)




