第21話 受付戦争
事の発端は、エルシアの何気ない一手だった。
「レイン、来週の稽古の件だけれど」
昼下がりのギルド。依頼帰りの俺に歩み寄ったエルシアが、ごく自然に、俺の腕に手を添えた。貴族の社交では標準の距離感なのだろう。
「うちの屋敷の鍛錬場を使いましょう。書庫の旧王国流の図解も見せたいし、なんなら夕食も――」
「――レイン! 次の依頼書、確認してほしいんだけど!!」
受付から音速で割り込んできたリゼが、俺とエルシアの間に、体ごとねじ込まれた。物理的に。
「あら、リゼちゃん。今、お話し中よ?」
「業務です! 業務優先です! ギルド規定第三項!」
「その規定、依頼の話をしている私にも適用されると思うのだけれど」
「こっちは指名依頼です!」
「あら奇遇ね。私のも指名の稽古よ」
二人の間に、目に見えない火花が散った。俺は依頼書を受け取ろうとしたが、依頼書は存在しなかった。リゼの手にあったのは、白紙の綴りだった。
「リゼ。依頼書がない」
「あっ」
「ふうん? 白紙?」エルシアの口角が上がった。「業務、ですって?」
「う、うるさいですね!? これから書くんです!」
そこへ、匂いにつられたのか、フィノが尻尾を振って合流した。
「あ! おにいさん、おかえり! きょうのごはん、フィノがとなりにすわる!」
「あーっ!! それはだめ! 隣はだめ!」「あら、じゃあ私が反対側に」「おねえちゃんたち、ずるい!」
三方向から袖と腕を確保され、俺は物理的に移動不能になった。酒場の全員がこちらを見ている。ガストンに至っては、また賭け札を作り始めている。
「……全員、離せ。飯は全員で食えば解決する」
「「「解決しない!!」」」
唯一の三人の合意が、俺の却下だった。
*
騒動の収拾は、意外な人物がつけた。
「――騒がしい」
暗い席から立ち上がったセツが、無表情のまま俺の襟首を掴み、三人の包囲から猫の子のように引き抜いたのだ。
「この男は今日、北の沼地で泥まみれになって大蛙を二十匹駆除してきた。まず洗わせて、食わせて、寝かせなさい。取り合いはそれから」
正論だった。三人はしゅんとなり、俺は解放され、酒場は笑いに包まれた。
――ただし、セツはその去り際、俺にだけ聞こえる声量で、一言足した。
「……賑やかね、あなたの周り。三百年ぶりに見た、いい騒がしさ」
擦り切れた平坦な声の、一番奥。ほんの僅かに、何かが動いた音がした。俺の耳は、そういう音を拾い慣れている。毎朝、自分の中の似た音を探しているからだ。
*
その晩、俺は宿舎の屋根の上にいた。
星の観測は、夜間依頼の経路記憶に役立つ。というのは建前で、単に静かだからだ。千回の素振りと同じで、屋根の上の時間は、思考の整理に向いている。
「――やっぱりここにいた」
屋根の縁から、リゼがひょこりと顔を出した。手には湯気の立つ杯がふたつ。彼女は慣れた足取りで俺の隣に座り、杯のひとつを押し付けてきた。蜂蜜入りの山羊の乳。俺の帳面の「リゼの得意なもの」の項の、三番目だ。
「昼間は、その。……ごめん。騒ぎすぎた」
「実害はなかった。飯もうまかった」
「うん。……あのさ、レイン。あたし、自分でもやんなっちゃうんだけど」
リゼは杯を両手で包んで、膝を抱えた。
「エルシアさんが来ても、フィノちゃんが来ても、ほんとはちょっとだけ、こわいの。あんたの周りに、あんたを分かる人がどんどん増えてくのが。……あたしだけの役目が、なくなっちゃう気がして」
星明かりの下で、彼女の声は昼間よりずっと小さかった。
俺は帳面の話をすることにした。誰にも見せたことのない、あの帳面の。
「リゼ。俺は帳面をつけてる。人の感情の観察記録だ」
「え? う、うん。知ってる。よく何か書いてるよね」
「あの帳面の一頁目に、何が書いてあるか教える。――『リゼは、俺の差分を検知する。原理不明。要観察』だ」
「な、なにそれ。あたし、観察対象一号なの?」
「そうだ。二年前からずっと、一頁目のままだ」
俺は杯を置いて、言葉を続けた。今日は、言葉が出てくる日だった。
「エルシアは剣の相手だ。フィノは弟子で、セツは同類だ。全員、帳面のそれぞれの頁に記録がある。だが、お前だけは分類が終わらない。二年観察して、まだ終わらない。だからお前は、ずっと一頁目だ。……役目がなくなる心配は、計算上、成立しない」
リゼはしばらく黙っていた。それから、膝を抱えたまま、ことん、と俺の肩に頭を預けてきた。
「……ねえ。それって、つまりさ」
「なんだ」
「あんたの帳面、あたしから始まってるんだ?」
「……そうなるな」
「ふ、ふふ。そっか。あたしから始まってるのか。……ん。合格」
また合格が出た。何の試験かは、やはり聞かないでおく。
肩に乗った頭の重さと、蜂蜜の匂いと、星。今夜の記録は、帳面に書ききれない気がした。書ききれない記録が増えていくことを、最近の俺は、損失として計上しなくなっている。
――要観察。ただし、急がなくていい。
(次話:灰色区の収穫祭。火の花の下で。)




