第20話 セツ
その先輩冒険者は、いつも酒場の一番暗い席にいた。
セツ。エルフの女で、C級。単独行動主義。受けるのは討伐依頼のみ。誰とも群れず、誰とも飲まず、報告書だけは誰よりも正確――というのが、ガストン評だった。
「エルフってのは長命でな。あいつがこの支部に来て十五年、見た目が一つも変わらん。歳は聞くなよ、斬られるぞ」
そのセツが、俺の朝の裏庭に現れたのは、フィノが素振り二百回を超えた日の夜明けだった。
*
視線には、七百回目あたりから気づいていた。
裏庭の塀の上。猫のような気配の殺し方で、彼女は座っていた。銀の髪が、白み始めた空に溶けかけている。フィノは疲れ果てて切り株で寝ており、気づいていない。
俺は素振りを止めなかった。害意のない観察者を、俺は排除しない。二階の窓で毎朝実証済みだ。
千回目を終えたところで、塀の上から声が降った。
「……その型。朝に、千回」
抑揚の薄い声だった。俺のとは違う。俺のは何もない平坦で、彼女のは――擦り切れた平坦、とでも言うべきものだった。
「誰に、言われた?」
「拾った手記に書いてあった」
「拾った」セツは繰り返した。「……そう。拾った、ね」
彼女は塀から音もなく降りて、俺の正面に立った。エルフの瞳は薄い菫色で、そこには俺と同種の「何もなさ」が、うっすらと沈んでいた。
「何年続けている」
「十年」
「……十年」
セツの指先が、微かに震えた。武者震いでも怒りでもない。あれは、古傷に触れた時の震え方だ。帳面に書く。
「そう。まだ折れてないのね、あなた」
「折れる心が、元からない」
「――ええ。知ってる」
知ってる、と彼女は言った。初対面のはずの俺の、誰にも話していないことを。
「あなた、夜は眠れる? 夢は見る? 食事の味は、する?」
質問は三つ、続けて来た。世間話の口調で、世間話ではあり得ない中身だった。
「眠れる。夢はたまに見る。味は――最近、するようになった」
「……最近、する、ように、なった?」
セツの動きが、初めて止まった。薄い菫色の目が、わずかに見開かれる。
「なった? 途中から? そんなことが――」
彼女はそこで言葉を切り、口を閉じた。長い沈黙のあと、抑揚のない声が戻ってくる。
「……いえ。何でもない。朝の邪魔をしたわね」
「あんたは眠れないのか」
去りかけた背中に、俺は問いを返した。質問を三つ受けたなら、一つ返すのが等価だと思っただけだ。セツは足を止め、振り向かずに答えた。
「三百年、眠りは浅いまま。夢は見ない。味も、しない」
「三百年」
「長命種は、損ね。――ひとつだけ、忠告」
彼女は顔だけ半分、こちらへ向けた。
「その千回、誰に何を言われても、やめないこと。あなたが今もあなたでいられているのは、たぶん、それのおかげだから」
ヴォルフと同じことを言う。手記と同じことを言う。三人目だ。
「理由を知っているのか」
「……さあ。私は『続けられなかった』側だから」
それだけ残して、セツは朝靄の中へ消えた。
続けられなかった側。その言い方は、「続けるべき何か」が存在し、彼女がかつてそれに挑んで、敗れたことを意味する。点が、また増えた。今度の点は、今までで一番、俺自身の近くに落ちた。
*
「――セツさんと、話したんだ」
昼の受付で、リゼは伝票を捌きながら、妙に静かな声で言った。嫉妬の低気圧かと思ったが、違った。彼女の顔にあったのは、心配の色だった。
「あのね、変なこと言うけど。あたし、セツさんのこと、昔からちょっとだけ苦手なの。嫌いじゃないんだよ? ただ……」
リゼは言葉を探して、自分の胸の前で、小さく手を握った。
「……あの人、あんたと似た感じがするの。似てるのに、あんたより、ずっと……暗い。うまく言えないけど、灯りのついてない家みたいな」
俺の中の何かと、彼女の言う「感じ」は、たぶん同じものを指している。俺は空洞で、セツは――三百年ぶんの空洞だ。
「話は合った。俺と彼女は、たぶん同じ種類の人間だ」
「…………そ、っか」
リゼの声が、少しだけ萎んだ。伝票を持つ手が止まる。俺は帳面の「拗ね」と「不安」の項を検索し、どちらとも違うと判定した。これは新項目だ。彼女は今、「自分の居場所」の確認を必要としている。
だから俺は、事実を言った。
「だが、話が合うのと、声が残るのは、別だ」
「……こえ?」
「セツの声は、情報として正確に処理できる。お前の声は、処理したあとも、残る。ここに」
俺は自分の胸を、指の背で軽く叩いた。説明としては不正確だが、あの「振動」の在り処は、経験上そのあたりだ。
リゼは伝票の束を取り落とした。
「~~~っ、あんたはっ、ほんとにっ、そういうことを! 真顔で! 受付で!!」
「事実を」
「事実でも!! ……もう。……もう、ばか」
床に散った伝票を二人で拾い集める間、リゼの耳はずっと赤かった。拾い終わった彼女は、伝票の陰から、小さな声で言った。
「……残ってるなら、いいです。合格です」
何の試験だったのかは、聞かないでおいた。合格なら、それでいい。
(次話:受付戦争、勃発。)




