第19話 フィノの、ちいさな一回(幕間)
フィノは、字が、読めなかった。
北の村では、字を習う機会が、なかった。依頼票も、看板も、契約書も、フィノには、ただの模様だった。困った時は、いつも、誰かに、読んでもらっていた。
だが、ある日。
「フィノちゃん、この依頼票、読める?」
受付のリゼに、そう聞かれて、フィノは、しゅん、と、耳を垂らした。
「……よめない。フィノ、字、しらないの」
リゼは、はっとした顔をして、それから、優しく、笑った。
「そっか。……じゃあさ、あたしが、教えてあげる。字」
「え! ほんと!?」
「うん。受付のお姉さんは、字の先生も、できるんだから」
*
その日から、フィノの、二つ目の「毎朝の習慣」が、始まった。
朝、レインの素振りを見学した後。フィノは、ギルドの隅で、リゼから、字を、習った。
最初は、自分の名前から。
「フィ、ノ。……こう?」
「そう! 上手! ……あ、この線、もうちょっと、まっすぐ」
フィノの書く字は、みみずが、のたくったようだった。獣人の指は、ペンを握るのに、向いていない。何度書いても、歪む。
「……フィノ、へたっぴ」
三日目、フィノは、泣きそうな顔で、ペンを、置いた。
「みんな、すぐ書けるのに。フィノだけ、へた。……やっぱり、フィノ、あたまわるいのかな」
その時。
「フィノ」
声をかけたのは、素振りを終えた、レインだった。汗を拭きながら、フィノの、歪んだ字を、覗き込む。
「昨日のお前の字と、今日のお前の字。どっちが、うまい」
「……え?」
「並べてみろ」
フィノは、三日分の練習の紙を、並べた。
一日目の「フィノ」。二日目の「フィノ」。三日目の「フィノ」。
……確かに、少しずつ、線が、まっすぐに、なっていた。歪みが、減っていた。
「あ……」
「昨日のお前より、今日のお前は、うまい。それで、十分だ」レインは、いつもの、平坦な声で、言った。「他人と、比べるな。昨日の自分と、比べろ。……素振りと、同じだ。最初から千回振れる奴は、いない。最初から、綺麗に書ける奴も、いない。積むんだ。一日、一つずつ」
フィノの、垂れた耳が、ぴん、と、立った。
「……! そっか! きのうのフィノに、勝てば、いいんだ! 字も、素振りと、おなじ!」
「そういうことだ」
「フィノ、きのうのフィノより、うまい! ……えへへ! じゃあ、フィノ、かちつづける! 字も!」
リゼが、その様子を見て、くすくす、笑った。
「レインって、ほんと、そういう教え方、上手だよね。……あんた、いい先生に、なれるよ」
「教えてない。事実を、言っただけだ」
「はいはい。……そういうとこ、だぞ」
*
一月後。
フィノは、自分の名前を、綺麗に、書けるようになった。それから、リゼの名前。レインの名前。ノエルの名前。ギルドの、みんなの名前を。
そして、ある日。フィノは、一枚の紙を、握りしめて、レインのところに、駆けてきた。
「おにいさん! これ! フィノ、書いた!」
紙には、たどたどしい字で、こう、書いてあった。
『きのうのフィノに、かちつづける』
「フィノの、たからものの、ことば! 紙に、書いた! ずっと、わすれないように!」
レインは、その紙を、見た。歪んでいて、線が、ときどき、はみ出していて。だが、確かに、心のこもった、字だった。
「……いい字だ」
「ほんと!?」
「ああ。……昨日のお前より、ずっと、いい」
フィノの、尻尾が、ぶわりと、膨らんだ。
その紙を、フィノは、後生大事に、屋根裏部屋の、壁に、貼った。
毎朝、素振りの前に、それを、読んでから、一日を、始めるように、なった。
――昨日の自分に、勝ち続ける。
字も、剣も、心も。
積むことを、覚えた、小さな獣人の、これが、始まりだった。
後に、この「たからものの言葉」を書いた紙が、ある戦いの後、フィノを支えることになる。だが、それは、まだ、ずっと先の話だ。
(次話:三百年を生きるエルフ、朝の裏庭に現れる。)




