第164話:ストップ・ザ・ラーメン
地上からは、分厚い天井を震わせて鬨の声が響いてきていた。
モニターに映るのは、閻魔庁を取り囲む数千の反乱軍。彼らは錆びついた武具を打ち鳴らし、威圧的な叫び声を上げている。
だが、庁舎内――特に厨房エリアの空気は、奇妙なほど冷徹だった。
「……ふん。旧石器時代の戦い方だな」
晶は、厨房の片隅にある「コントロール・パネル」の前で、あくびを噛み殺しながら手元のタブレットを操作していた。
画面には、地獄全土のインフラ管理マップ――通称『ヘル・グリッド』が表示されている。
無数の光点が、リアルタイムで電力、熱源、物流の状況を示していた。
「あ、晶殿……? 何をしておるんじゃ?」
「ん? 害虫駆除の準備だ。……奴らが陣取っているのは、閻魔庁正面広場から『第3区画』、および資材搬入路のある『第5区画』だな」
晶の指が、指揮者のように滑らかに画面上を走る。
反乱軍が展開しているエリアを赤い枠で囲み、いくつかのパラメータを調整していく。
「あいつら、古いマスターキーで自動ドアの電源は落とせても、クラウドにあるシステムの根本には手も足も出なかったようだな。……この地獄のインフラを再設計し、その『管理者権限』を握っているのが誰なのか、骨の髄まで教えてやる」
晶の鋭い瞳が、モニターの光を反射して怪しく輝いた。
「エリア指定完了。……執行」
ポチッ。
晶が軽い手つきで「決定」ボタンを押した。
ブツンッ。
その瞬間。
反乱軍が包囲しているエリア一帯の照明が、まるで吸い込まれるようにフッと消滅した。
昼間とはいえ、薄暗い地下世界である地獄において、照明の喪失は視界の半分を奪われるに等しい。
「な、なんだ!? 電気が消えたぞ!」
「停電か!? おい、誰か松明を持ってこい!」
外から狼狽する声が聞こえてくる。
だが、異変はそれだけではなかった。
「……寒い」
「おい、なんだか急に冷えてきやがったぞ……?」
一分もしないうちに、気温が急激に低下し始めたのだ。
地獄といえば灼熱のイメージがあるが、それは『焦熱地獄』などの特定のエリアに限った話だ。
居住区や執務エリアである閻魔庁周辺は、本来、凍えるほど寒い。
これまでは、晶が整備した地熱発電所からのパイプラインによって温水と熱風が循環し、快適な室温、24度に保たれていたに過ぎない。
晶は、その「空調」を、反乱軍のいるエリアだけピンポイントで遮断したのだ。
「うぅ……手がかじかむ……」
「防寒着なんて持ってきてねぇぞ……!」
鎧という名の鉄塊を身にまとっている彼らにとって、底冷えする寒さは致命的だ。
鉄が冷気を吸い、体温を容赦なく奪っていく。
快適な環境に慣れきっていた彼らの体は、もはや昔ながらの「根性」だけでは耐えられなくなっていた。
「くっ、怯むな! これは奴らの小細工だ! 我々の熱い魂で寒さなど吹き飛ばせ!」
指揮官である黒鬼が叫ぶが、兵士たちの震えは止まらない。
そして、寒さと暗闇以上に彼らを追い詰めたのは――生物としての、根源的な欲求の遮断だった。
グゥゥゥゥゥ……。
あちこちで、腹の虫が鳴り響く。
時刻は正午を回っている。
本来なら、一日の労働の合間、最も楽しみな「ランチタイム」の時間だ。
「お、おい! 今日の昼飯の配給はまだか!?」
「腹が減って戦えねぇぞ! 補給部隊はどうした!」
兵士たちが騒ぎ出す。
だが、補給物資など届くはずがない。
晶は物流システムも掌握しており、反乱軍エリアへの物資搬送ルートにある全ての自動ドアと隔壁をロックしていたのだ。
「……ふん。やはりな」
モニター越しにその様子を見ていた晶は、冷ややかに笑った。
「彼ら『古参』が連れてきた兵士たちも、所詮は現役世代。……口では『昔はよかった』と言っていても、体は正直だ」
反乱軍の兵士たちの多くは、黒鬼たちへの義理で付き合っている一般の鬼や、金で雇われた亡者だ。
彼らはすでに、晶の作った「快適な地獄」と「美味い飯」を知ってしまっている。
一度上がった生活水準を下げられることへのストレスは、拷問にも等しい。
「さて、仕上げといくか」
晶はタブレットを置き、マイクのスイッチを入れた。
閻魔庁の外壁に設置された、防災用の巨大スピーカーが起動する。
『――あー、あー。テステス。……反乱軍の諸君。聞こえるか?』
戦場に、気だるげな晶の声が響き渡った。
「魔女め、姿を現したな!」
「卑怯だぞ! 電気と暖房を戻せ!」
罵声が飛んでくる。
だが、晶はそれを無視して、残酷な追い打ちをかけた。
『寒いだろう? 腹も減っているんじゃないか? ……こっちは今、ちょうど麺が茹で上がったところだ』
その言葉と同時だった。
ブォォォォォォォンッ!!
閻魔庁の側面にある巨大な排気ダクトから、猛烈な勢いで「白煙」が噴き出した。
それはただの煙ではない。
厨房でグツグツと煮込まれた、魔獣骨スープの湯気だ。
大量の背脂、焦がしニンニク、特製塩ダレ、そして茹でたての麺の小麦の香り。
それらが混然一体となった「暴力的なまでの旨味の塊」が、強力な送風ファンによって、風下の反乱軍陣地へと直撃した。
「うっ……!? な、なんだこの匂いはぁぁ!?」
「こ、これは……ッ!!」
兵士たちの動きが止まった。
鼻孔をくすぐる、強烈な食欲の刺激。
寒さと空腹で感覚が研ぎ澄まされている彼らにとって、その匂いは脳髄を直接殴られるような衝撃だった。
「うおぉぉぉ!? こ、この匂いは……『地獄ラーメン』だぁぁ!!」
「すぐそこに……壁一枚向こうに、ラーメンがあるぞぉぉ!」
ガシャガシャッ!
兵士たちが武器を取り落とし、よだれを垂らして庁舎の方へと手を伸ばす。
パブロフの犬状態だ。
脳内ではすでに、あの濃厚なスープを啜り、極太麺を噛み締めるイメージが再生され、エンドルフィンがドバドバと分泌されている。
『王いわく、今日のスープは会心の出来だそうだ。……チャーシューもトロトロに仕上がっている。冷えた体には、熱々のスープとニンニクが染みるぞ?』
スピーカーから流れる晶の声は、悪魔の囁きそのものだった。
『庁舎内は室温24度。……いま投降した者には「大盛り一杯」をサービスするぞ』
その一言が、決定打となった。
「ら、ラーメン……」
「俺は……俺はラーメンが食いたいんだぁぁぁッ!!」
一人の兵士が、武器を捨てて走り出した。
それを皮切りに、二人、三人、十人と続く。
「ま、待て貴様ら! 騙されるな!」
「我々の誇りはどうした! 戻れ! 戻らんか!」
黒鬼や紫鬼が必死に制止しようとするが、もはや誰の耳にも届かない。
空腹と寒さの中での、容赦ない飯テロ。
生理的欲求の前に、精神論など無力だった。
「あぁ……なんという残酷な……」
「あいつ、俺らより『鬼』だな!」
厨房でその様子を見ていた閻魔大王と若い鬼たちは、ドン引きしながら震えていた。
晶は満足げに頷き、再びラーメンを啜り始めた。
「……勝負あり、だな」
戦わずして敵を崩壊させる。
それは、晶が「システム」と「欲望」で地獄を完全に掌握したことの証明だった。
反乱軍の包囲網は、スープの匂いと共に、なし崩し的に瓦解していったのである。




