第165話:クーデター鎮圧
閻魔庁の正面広場は、一触即発の異様な空気に包まれていた。
極寒の冷気と、それを嘲笑うかのような濃厚な魔獣骨と特製塩ダレの湯気。
黒鬼の暴力的な制止によって足を踏みとどまった数千の反乱軍兵士たちは、震える手で武器を握りしめながらも、その視線は庁舎の排気ダクトに釘付けになっていた。
「た、耐えるのだ! これは罠だ!」
「我々の誇りを思い出せ! ラーメンなどに屈してなるものか!」
指揮官である黒鬼が、声を枯らして叫ぶ。
彼の周りにいる紫鬼や緑鬼たちも、武器を構えて必死に兵士たちを威圧し、前線を維持しようとしていた。
彼らにとって、これは単なる食事の問題ではない。自分たちの存在意義をかけた「旧体制」と「新体制」の戦いなのだ。
だが、その悲痛な叫びをかき消すように、スピーカーから晶の無慈悲な声が響いた。
『……ふむ。まだ迷っている者がいるようだな』
ザザッ……というノイズの後、晶の声のトーンが一段低くなった。
それは、交渉決裂を告げる冷徹な響きだった。
『いいだろう。ならば、条件を提示する。……これが最後通告だ』
ゴクリ、と兵士たちが生唾を飲み込む音が重なる。
『今、この瞬間に武器を捨てて投降した者には、温かいラーメンと……さらに特別ボーナスとして、「替え玉無料券」を支給しよう』
「な、なんだとぉぉ!?」
「替え玉……無料……!?」
どよめきが広がる。
一杯だけではない。おかわりも無料。それはつまり、腹一杯食えるという約束だ。
だが、悪魔の囁きはそこで終わらない。
『だが、もしこのまま抵抗を続けると言うのなら……』
晶の声が、氷点下よりも冷たく響いた。
『お前たちの食事は、今日この瞬間から未来永劫、「乾燥したパン」のみとする』
その言葉が放たれた瞬間。
反乱軍全体に、戦慄が走った。
「パ、パンのみ……!?」
「あの、口の中の水分を全部持っていかれる、あのボソボソした物体か!?」
「しかも『乾燥した』だと!? 飲み物なしで!?」
地獄の囚人食として、長年彼らを苦しめてきた悪名高きメニュー。
ラーメンという「極上の快楽」を知ってしまった彼らにとって、元の「味のない地獄」に戻ることは、死刑宣告以上に恐ろしい未来だった。
「ひぃぃッ!?」
「嫌だぁぁぁ! パンはいやだぁぁぁ!」
「俺はラーメンが食いたいんだよぉぉ!」
その恐怖が、決定的な引き金となった。
ガシャーン! カラン! ガラガラガッシャン!!
武器が地面に落ちる音が、ドミノ倒しのように連鎖した。
もはや誰にも止められなかった。
空腹と寒さ、そして圧倒的な「ラーメン食いたい欲」に負けた鬼たちが、次々と両手を上げて投降してくる。
「と、投降します! 全部吐きます!」
「俺は悪くないんです! 金で雇われただけで!」
「バリカタで! 麺、バリカタでお願いします!」
広場は一瞬にして、投降者の海と化した。
彼らは武器を捨て、閻魔庁の入り口に向かって雪崩を打って押し寄せる。
もはやそれは軍隊ではない。ただの「腹を空かせた大行列」だった。
「ま、待てお前たち! 戻れ! 戦え!」
「貴様ら、鬼としての誇りはないのか!」
黒鬼が金棒を振り回して制止しようとする。
だが、かつての部下たちは、冷ややかな目で元上司を見返した。
「すいません親分! ……でも、俺たちはもう戻れないんです!」
「誇りで腹は膨れねぇんだよぉぉ!」
「時代は変わったんだよ、アンタらも早く頭下げて、替え玉券もらいなよ!」
「な、貴様ら……!」
黒鬼が絶句した隙に、数人の屈強な若い鬼たちが飛びかかった。
「すまねぇ親分! これもラーメンのためだ!」
「確保ォォッ!!」
「ぐあぁぁっ!? は、離せ! 貴様ら、謀反か!」
「うるせぇ! 替え玉無料券がかかってるんだ!」
部下たちは黒鬼、紫鬼、緑鬼たちを取り押さえ、ぐるぐる巻きにして晶の元へと差し出した。
クーデターは、一滴の血も流れることなく、わずか数十分で完全に鎮圧されたのである。
閻魔庁、メインエントランス。
後ろ手に縛られた古参幹部たちが、冷たい石床に転がされていた。
その前で、晶は湯気の立つドンブリを持ちながら、冷ややかに彼らを見下ろしていた。
「……勝負ありだな」
「ぐぬぬ……! 卑怯だぞ、魔女! 正々堂々と戦わんか!」
黒鬼が悔し涙を流して吠える。
晶は呆れたように肩をすくめた。
「正々堂々? ……古いな。これは戦争ではなく、経営の問題だ」
晶は箸で麺をつまみ上げ、ズルリと音を立てて啜った。
「時代は変わったんだ。これからは、暴力や恐怖ではなく、『管理』と『福利厚生』が地獄を支配する」
「ふ、福利厚生だと……?」
「ああ。飯がうまく、労働環境が良く、適切な報酬が出る。……それだけで、誰もが私に従う。お前が掲げる『恐怖の支配』など、コストパフォーマンスが悪すぎるんだ」
黒鬼はガクリと項垂れた。
目の前の人間は、腕力も攻撃魔法も持っていない。
だが、その合理的すぎる思考と、欲望をコントロールする術において、いかなる鬼よりも恐ろしい「支配者」だった。
「連れて行け。……彼らには、たっぷりと『パン』を食わせてやれ」
「ひぃぃぃ! それだけは勘弁してくれぇぇ!」
絶叫と共に、古参鬼たちが牢屋へと連行されていく。
こうして、地獄における晶の権力は絶対的なものとなった。
エネルギー、食料、情報、そして人事権。
すべてを握る、実質的な「裏の閻魔大王」の誕生である。
周囲では、投降した鬼たちが涙を流してラーメンを啜り、閻魔大王が「平和が一番じゃのう」と替え玉を注文している。
地獄は再び、いや、以前よりも強固に統一された。
「さて、地獄の地盤は固まった。……憂いはなくなったな」
晶は空になったドンブリを置き、真顔に戻ってPDAを取り出した。
閻魔庁の制圧は完了した。
だが、これはあくまで「帰還」のための準備段階に過ぎない。
本番はこれからだ。
「あとは……ルナたちが『ゲート』を確保するのを待つだけだが」
晶はマップを切り替えた。
表示されたのは、閻魔庁から遥か深く、冥界の最奥部に位置するエリア――『八寒地獄』。
そこに表示されている環境センサーの数値が、異常な警告色を示していた。
【現在気温:-273.15℃】
そこは、あらゆる物質の原子運動が停止する、死の世界。
灼熱の地獄すら生ぬるく感じる、真の虚無。
「……急げよ、ルナ、ポチ、タマ、タロウ。そこは、生物だけじゃなく機械にとっても地獄だぞ」
晶の表情に、いつもの余裕はなかった……。




