第162話:古参鬼の嫉妬
閻魔庁の地下深く。
活気に満ちた食堂や、デジタル化された執務室の喧騒が届かない、カビ臭く薄暗い一室があった。
かつては「第1拷問会議室」と呼ばれていたその場所は、今は物置同然の扱いを受けている。
そこには、時代に取り残された数名の鬼たちが集まっていた。
「……嘆かわしい。実に嘆かわしいことだ」
重苦しい沈黙を破り、しわがれた声が響いた。
声の主は、立派な角を持ちながらも、その肌の色が墨汁のように沈んだ老齢の黒鬼だ。
彼は、地獄の創設期から獄卒を務めてきた古参中の古参、かつては「地獄の鬼軍曹」と恐れられた男だった。
「聞け、あの天井の向こうから聞こえてくる浮ついた声を。……『ラーメンうめぇ』だと? 『ポイント溜まった』だと? ……ふざけるなッ!!」
ドンッ!!
黒鬼が拳で古びた石のテーブルを叩きつけた。
その衝撃で、積み上げられたまま放置されていたかつての罪状録が崩れ落ち、ホコリが舞う。
「地獄とは! 恐怖と絶望が支配する場所であらねばならん! 亡者の悲鳴を肴に、血の酒を飲む……それこそが我ら鬼の美学だったはずだ!」
彼の周りに座る他の老鬼たち――紫鬼や緑鬼たちもまた、深く頷いた。
彼らは皆、晶が推進する改革についていけず、組織の隅へと追いやられた「窓際族」たちだ。
「全くだ。……あの人間、晶とか言ったか。奴が来てからというもの、何もかもがおかしくなった」
紫鬼が忌々しげに吐き捨てる。
「まずはあの『DX化』とかいうふざけた真似だ。わしらが数千年かけて築き上げてきた『手書き帳簿』の伝統を廃止し、あろうことか『たぶれっと』などという光る板切れを導入しおった!」
「そうだ! わしの指は太すぎて、あの小さなアイコンとやらが押せんのだ! それを若い鬼に聞けば、『まだ覚えてないんですか? マニュアル読みました?』などと……! 新人の分際で、このわしを見下しおって!」
彼らの怒りの源は、典型的な「新しい技術への不適応」と、そこから来る「プライドの毀損」だった。
かつては絶対的な権力を持っていた彼らだが、デジタル化の波に乗り遅れ、業務効率の悪さを指摘され、今や「システムの使い方も分からないお荷物」扱いされているのだ。
「それに『シフト制』もじゃ! 労働基準法だと? 鬼に人権などあってたまるか! 我々は24時間365日、不眠不休で罪人を責め苛んでこそ、一人前の獄卒だろうが!」
「いかにも! 最近の若いモンは、『今日は非番なので帰ります』などと平気で言いよる。……根性が足らんのだ、根性が! 休む暇があったら針山の一本でも磨かんか!」
彼らの主張は、典型的な精神論と過去の成功体験への固執だった。
だが、彼らにとってそれは絶対の正義であり、自分たちの存在意義そのものだったのだ。
そして、彼らの怒りの矛先は、昨今の「ラーメンブーム」で決定的なものとなっていた。
「極めつけが、あの『ラーメン』じゃ……。換気口から漂ってくるあのニンニクとやらのニオイ……。神聖なる閻魔庁に、あんな下品な臭いを漂わせおって! 地獄を侮辱するにも程がある!」
黒鬼が鼻をつまみ、侮蔑の表情を浮かべる。
「食事など、生肉と泥水で十分じゃろうが! 食の楽しみなどという『快楽』を覚えてしまったら、鬼から凶暴性が失われる! 現にどうだ、最近の若い鬼たちは、亡者と楽しそうに会話までしておるではないか!」
「由々しき事態だ。……このままでは、地獄が地獄でなくなってしまう」
緑鬼もまた、顔をしかめて同意する。
彼らにとって、晶の行う改革は全てが「悪」だった。
効率化は「手抜き」。
環境改善は「甘やかし」。
そして、美味しい食事は「堕落」の象徴。
だが、その根底にあるのは、もっと個人的で、もっと醜い感情だ。
「……許せんのは、それを主導しているのが、『人間』だということだ」
黒鬼の目が、暗い嫉妬の炎で揺らめいた。
「本来ならば裁かれるべき人間風情が、なぜ閻魔大王様の隣に立ち、我々に指図している? ……本来、あの場所にいるべきは、長年尽くしてきた我々ではないのか?」
既得権益を侵された怒り。
自分たちよりも有能な「よそ者」への嫉妬。
そして、自分たちが築いてきた時代が否定されたことへの屈辱。
「閻魔大王様も、あの女狐……いや、あの人間にたぶらかされておるのじゃ。……『生産性』だの『効率』だのという甘言に惑わされ、本来の地獄の姿を見失っておられる」
「うむ……。大王様はお優しすぎるのじゃ。誰かが目を覚まして差し上げねばならん」
彼らは顔を見合わせた。
その目には、歪んだ使命感が宿っていた。
自分たちは間違っていない。間違っているのは時代の方だ。
ならば、力づくで「正しき時代」に戻すしかない。
「……幸い、我々はまだ全ての権限を剥奪されたわけではない」
黒鬼が懐から、古びた、しかし重厚な輝きを放つ鍵束を取り出した。
それは、デジタル化される前の、物理的な「マスターキー」だ。
最新のセキュリティシステムが導入された今でも、緊急用のバックドアとして、物理的なロック機構は残されている。
そして、古いシステムの裏側を知り尽くしているのは、彼ら古参の鬼たちだけだ。
「中央管理室にある『さーばー』とやらのプラグを引っこ抜いて、デジタルの光を消し去る。……そうすれば、再び『闇』と『恐怖』の時代が戻ってくる」
「おお……! 再び、紙とペンの時代が!」
「暴力と根性の時代が!」
「決行は明日の昼時。……皆がラーメンにうつつを抜かし、完全に油断しきっている時じゃ」
黒鬼が邪悪な笑みを浮かべた。
「あの人間を追放し、古き良き地獄を取り戻すのだ! これは反乱ではない……『世直し』である!」
「「「異議なし!!」」」
老害鬼たちの目が、怪しく光った。
自分たちが「組織の癌」になっていることにも気づかず、彼らはそれを「正義」と信じて疑わなかった。
時代の変化に取り残された亡霊たちが、最後の悪あがきを始めようとしていた。
クーデターの計画は、静かに、しかし確実に動き出した。
その翌日、地獄に再び不穏な空気が流れ始めることなど、ラーメンに舌鼓を打つ若い鬼たちは、まだ知る由もなかった。




