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第159話:熱力学の勝利

「……戯れ言を。その程度の魔力で何ができるというのだ」


 聖騎士団長が、兜の奥で険しい声を絞り出した。


 彼の目の前にいるのは、魔力欠乏で立っているのもやっとの、ひ弱な男だ。


 台車に乗せているのは、魔力反応すら感じられない無骨な金属のタンクと、そこから伸びたノズルのみ。


 剣も杖も持たぬその姿は、戦場においてはあまりに無力……なはずだった。


 だが、どうしても本能の警鐘が鳴り止まない。得体の知れない悪寒が、歴戦の騎士の背筋を撫でていた。


(ええい、怯むな! 相手は虫の息の魔導師だぞ!)


 団長は己の内に芽生えた恐怖を、強引な怒声と信仰心で塗り潰す。


「我々の『聖なる盾』は、神の加護そのもの! 貴様の持つ奇妙な筒が何であろうと、この絶対の壁を越えることすら叶わん!」


 迫り来る未知への恐怖を断ち切るように、陣形の中央で団長が剣を振り上げる。


 それに呼応して、残る九名の聖騎士たちも一斉に一歩を踏み出した。


 光の壁が迫る。


 ボルスやリナが必死に攻撃しても傷一つ付かなかった、絶望の壁だ。


 だが、テオは退かなかった。


 彼はガタガタと震える手で、タンクに接続されたノズルの先端を、聖騎士団の正面へと向けた。


 その眼鏡の奥にある瞳は、恐怖ではなく、冷徹な観察者の色を帯びていた。


(……敵装備、ミスリル銀製フルプレート。熱伝導率、極大)


(……身体強化魔法展開中。細胞のエネルギーバランス崩壊による柔軟性の低下を確認)


 テオの脳内で、高速の演算が走る。


 相手は一個分隊とはいえ最強の騎士団だ。生半可な攻撃では傷一つ付かない。


 だが、その「強さ」こそが、彼らの致命的な弱点になる。


(条件クリア。……低温脆性(ていおんぜいせい)による『肉体のガラス化』率98%)


「……ええ、そうでしょうね。あなたの言う通り、その盾は完璧です」


 テオが静かに言った。


「解析した結果、その障壁は『運動エネルギーの熱変換』と『魔力干渉の遮断』に特化している。……つまり、物理攻撃も魔法攻撃もほぼ効かない」


 だからこそ、銃弾も爆発も通用しなかった。


 「押す力」に対して、この盾は無敵なのだ。


「ですが、聖騎士様。……社長は常々言っていました。『防御とは、特定の攻撃に特化した瞬間に、別の穴が生まれるものだ』と」


 テオの手が、放出バルブを握りしめる。


「結界は『運動エネルギー』を熱に変換して防ぐもの。……ですが、『熱』を奪われることは防げませんよね?」


「なんだと……?」


「あなたたちは、これから起きる現象を『攻撃』だと認識すらできないでしょう。……これはただの、熱の移動ですから」


 テオがバルブを全開にした。


「熱力学第二法則、執行エンゲージッ!!」


 ズバァァァァァァァッ!!!!


 鼓膜を打つ、鋭利な噴射音。


 ノズルから噴き出したのは、炎でも雷でも、魔法の光でもない。


 ロケットの燃焼室へ酸化剤を送り込むために晶が改造した、魔石加圧式の超高圧システム。


 その猛烈な圧力は、液体を気化させる暇すら与えず、白い槍のように射出する。


 マイナス196度の液体窒素が、自身の気化膜で蒸発を防ぎながら、密度の高い「液体の奔流」となって空間を断ち切った。


「なっ、水か!? そんなもので……」


 騎士たちは防御しようともしなかった。


 彼らの障壁は、ドラゴンのブレスすら防ぐ。ましてや、ただの水をかけられたところで、障壁に弾かれて終わりだ。


 そう過信していた。


 だが、現実は彼らの想像を絶する形で訪れた。


 ジュワアアアアアッ……!!


 液体窒素が光の障壁の中央に触れた瞬間、爆発的な気化音が響き渡った。


 それは障壁に弾かれるのではない。


 障壁に触れた地点から、周囲の空間にある「熱エネルギー」を貪欲に奪い去っていくのだ。


「な、なんだ!? 霧……いや、前が見えん!」


 視界が真っ白な冷気に覆われる。


 そして、異変は直後に起きた。


 パキッ……パキパキパキパキッ……!


 硬質な音が響き始めた。


 聖騎士たちが信じていた絶対の盾――青白く輝いていた光の壁が、急速に輝きを失い、白く濁っていく。


「ば、馬鹿な!? 障壁が……凍っていく!?」


 団長が驚愕の声を上げた。


 魔力で構成された壁が、物理的に凍結し、ガラスのようにひび割れ始めたのだ。


(な、なんだこれは!? 冷気が、盾の『連結』を伝わって全員に波及しているだと!?)


 団長は凍りつく思考の中で、己の致命的な采配ミスに戦慄した。


 個の防御を捨て、全体で一つとなる無敵の陣形。それが完全に仇となった。連結された障壁を伝って、十名分の命の熱が平等に、かつ一瞬で吸い出されていく。


「お、のれ……我々の陣形、が……!」


 自らの完璧な采配が部下全員を氷の地獄へ引きずり込んだという絶望と共に、団長の意識は白く塗り潰された。


「う、動かん! 鎧が……体が……!」


 悲鳴が上がる。


 障壁を突破した液体窒素と、気化したマイナス196度の冷気が、陣形の中央にいる団長から左右の聖騎士たちへと直撃した。


 彼らの誇るミスリル銀の全身鎧。


 魔法防御に優れたミスリルだが、皮肉にも熱伝導率もまた異常に高かった。


 瞬時にして鎧の表面温度が急降下し、鎧自体が強力な冷却フィンとなって、内部にいる人間の体温を容赦なく吸い上げる。


「あ、あが……ッ!?」


 本来なら、人間が芯まで凍るには時間がかかる。


 だが、彼らは「身体強化魔法」で細胞を鋼のように硬く結びつけていた。


 柔軟性を失った肉体は、急激な温度変化による収縮に耐えられない。


 聖騎士たちは、防御の姿勢を取ったまま、一瞬にして氷像へと変わった。


 剣を振るうことも、声を上げることもできない。


 ただ、白い霜に覆われた彫像が、そこに立ち尽くすのみ。


「熱は高いところから低いところへ流れる! どんなに強固な魔法障壁だろうと、分子レベルで運動を止められれば形を保てない! 神様だって、この宇宙のルールには逆らえません!」


 テオが叫ぶ。高圧噴射の凄まじい反動で体が浮きそうになるのを、必死に足を踏ん張って耐える。

 科学による、魔法の否定。


 それは晶がこの世界にもたらした、最も冷酷で、最も公平な「真理」だった。


 カキンッ!


 完全に凍結した聖騎士の一人が、バランスを崩して倒れた。


 地面に激突する。


 本来なら、ガシャンという金属音が響くはずだった。


 だが、聞こえたのは――


 パァァァァンッ!!


 まるで、巨大なガラス細工を床に叩きつけたような、乾いた破砕音だった。


「ひ……ッ!?」


 後ろにいた兵士たちが、息を呑んだ。


 倒れた聖騎士は、起き上がらなかった。


 いや、起き上がれるはずがなかった。


 彼の体は、着地の衝撃で、鎧ごと粉々に砕け散っていたのだから。


「熱伝導率の高いミスリルの全身鎧。細胞の柔軟性を奪う身体強化魔法。そして、全員の盾を繋ぎ合わせた強固な『連結』……」


 テオは白く曇った眼鏡を中指で押し上げ、氷の彫像と化した聖騎士たちを見据えて冷酷な事実を告げた。


「あなたたちが誇るその強さの全てが、完璧な冷却回路となって、十名全員に等しく致命傷クリティカルを叩き出したんです。……皮肉なものですね」


 低温脆性(ていおんぜいせい)


 多くの金属は、極低温下においてその粘り強さを失い、ガラスのように脆くなる。


 いかに強固なミスリルといえど、マイナス196度の世界では、プラスチックのスプーンよりも脆い。


 さらに、強化魔法でガチガチに硬化していた彼らの肉体もまた、ガラスと同じ運命を辿ったのだ。


 中身の人間ごと、バラバラの破片となって飛散した仲間を見て、残された者たちの戦意が凍りついた。


「ヒィッ……!」


「ば、化け物だ……!」


「魔法じゃない……あんな魔法、聞いたことがないぞ!」


 残った敵兵が戦慄して後退する。


 剣も、炎も、雷も使っていない。


 ただの「冷たい空気」を吹き付けただけで、最強の騎士団が、文字通り粉砕されたのだ。


 未知への恐怖が、信仰心を上回った瞬間だった。


「へっ……やるじゃねぇか、テオ!」


「すげぇよテオ! あいつらカチンコチンだ!」


 ボルスとリナが歓声を上げる。


「おいおい、よく見りゃあいつら……盾をくっつけてたせいで、真ん中の奴から両サイドに向かって、ドミノ倒しみたいに全員凍ってやがるぞ……」


 ボルスが引き攣った笑いを浮かべて呟いた。


「あー……これ、アネキが電池配線の時に言ってたやつだ。『直列繋ぎは一つショートしたら全部死ぬ』って……」


 リナが顔を引きつらせる。


 強固な一枚岩となった陣形は、皮肉にも「全員が同じ回路で繋がった巨大な冷却装置」として機能してしまったのだ。


 聖騎士団という最大の脅威は、物理学という名の鉄槌によって完全に排除された。


 シューッ……。


 ノズルからの噴射音が止まる。


 同時に、テオはその場に崩れ落ちた。


「……もう、限界です……。あとは、頼みます……」


 地面に手をつき、荒い息を吐く。


 タンクは空になった。


 魔力欠乏に加え、高圧噴射の凄まじい反動を支え続けた疲労で、指一本動かせない。


 テオの眼鏡は白く曇り、その手は凍傷で赤く腫れ上がっていた。


「おう! よくやった! 十分だ!」


 ボルスがテオの前に立ち、彼を庇うように足元に転がっていた鉄の鈍器を拾い上げ、構えた。


 敵の主戦力である聖騎士団は壊滅した。


 だが、後方にはまだ、状況を飲み込めずにいる一般兵や、軽装の騎士たちが残っている。


 数はまだ多い。


 そして何より、冥界へ旅立った晶たちは、まだ戻らない。


「聞こえたか野郎ども! テオがこじ開けてくれた活路だ! 無駄にするんじゃねぇぞ!」


 ボルスが吼える。


 満身創痍の体。尽きた弾薬。動かない重機。


 それでも、彼らの目は死んでいなかった。


「耐えるんだ……! アネキが帰ってくるまで、1秒でも長く!」


「おうよ! 社長の帰宅まで、現場を守り抜くのが俺たちの仕事だ!」


 リナが折れた剣を拾い、作業員たちがスパナを握り直す。


 聖騎士という「最強兵器」を退けた彼らの士気は、最高潮に達していた。


(アネキ……マジで早く戻ってきてくれ)

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