第146話:水陸両用タロウ号
直後、タロウの身体から、およそ生き物には似つかわしくない駆動音が響き渡った。
ガション、ガション、ウィィィン……!
それは、生物の変身ではない。高度な工業製品が組み変わる、変形の音だ。
タロウの全身を覆っていた銀色の毛皮――『耐圧スライム装甲』が、液状化してドロリと流動を始めた。
かつて深海の水圧に耐えるために開発された特殊装甲が、今度は別の目的のために再構成されていく。
「な、なんだい!? その犬、形が変わって……!?」
奪衣婆が腰を抜かして後ずさる。
彼女の目の前で、タロウの四肢が胴体内部へと収納され、代わりに流動したスライム装甲が足元へと広がり、ドーナツ状の巨大なゴム製スカートを形成していく。
さらに、背中の羊毛が左右に割れ、その下からチタン合金製の巨大なダクトファンが二基、せり上がってきた。
流線型のボディ。底面を覆う柔軟なスカート。そして推進力を生むプロペラ。
数秒前まで犬の形をしていたそれは、もはや生き物ではなかった。
それは、現世の科学が生み出した水陸両用の機動兵器『ホバークラフト』へと変貌を遂げていた。
「すごいのだ! タロウがボートになったのだ! かっこいいのだー!」
「ほほう! これは驚いた!」
ポチが目を輝かせ、タマが感嘆する。
「以前、深海探索で使ったスライム装甲を、今度は『空気の器』として使うか! 考えたのう!」
「その通りです」
ルナが解説を加える。
スライム装甲の特性である「高い気密性」と「柔軟性」は、空気を閉じ込めるエアクッションの素材として最適だったのだ。
「全員、乗ってください! これより強行突破します!」
ルナが身軽な動作でタロウの首元、いまや操縦席となった風防の後ろに飛び乗った。
続いてタマがポチの首根っこを掴んで飛び乗り、タロウの広い背中にしがみつく。
「準備はいいですね? ……エンジン、始動!」
ルナがコンソールを操作すると、背中のファンが低く唸りを上げ始めた。
ヒュオオオオオオ……!
高回転するファンが周囲の空気を吸い込み、船底のスカート内部へと高圧力で送り込む。
行き場を失った圧縮空気は、船体を下から持ち上げようとする強烈な揚力へと変わる。
プシューッ!
スカートの隙間から余分な空気が噴き出す音と共に、タロウの巨大な船体が、ふわりと地面から浮き上がった。
浮上高、約30センチ。
地面との物理的な接触は断たれ、摩擦係数は限りなくゼロになった。
「い、浮いた!? 船が陸で浮いた!? 妖術か!? いや、あれほどの鉄の塊がなぜ……!」
奪衣婆が口をあんぐりと開け、理解不能な現象に杖を取り落とす。
地獄の常識では測れない「科学の浮力」が、そこにはあった。
「行きます! 舌を噛まないように、しっかり掴まっていてください!」
ルナがスロットルレバーを全開まで押し込んだ。
背後の推進用プロペラが爆音を轟かせる。
ブォォォォォォォンッ!!
ズバババババッ!!
猛烈な風圧と共に、タロウ号が急加速した。
タイヤで地面を蹴るのではない。空気の反動で滑るように進むのだ。その加速感は、氷の上を滑走するソリに近い。
荒れた岩場も、ひび割れた大地も関係ない。
タロウ号は滑るように陸地を疾走し、目の前に広がる淀んだ三途の川へと、減速することなく突っ込んだ。
「うわわっ!? 落ちるのだー!?」
「問題ありません、突入します!」
バシャァァァァッ!!
巨大な水しぶきが上がり、タロウ号が川面へと踊り出た。
だが、沈まない。
船体は水面に接することなく、エアクッションの圧力によって浮き続けている。
水上に出たことで摩擦はさらに減り、速度計の針が跳ね上がった。
「ひゃっほーぅ! 速いのだ! 風なのだー!」
ポチが歓声を上げる。
時速80キロ、100キロ……。
水上とは思えないスピードで、ドス黒い川面を切り裂いていく。
「見よ! 川の水に触れておらん! これなら亡者の手も届かんわ!」
タマが船べりから下を覗き込んで叫ぶ。
水面下では、無数の蒼白い手や、苦悶の表情を浮かべた亡霊たちが、生者の肉を引きずり込もうと待ち構えていた。
だが、彼らの手は空を切るばかりだ。
タロウ号は水面から30センチ浮上しているため、物理的な接触が起こらない。さらに、スカートから噴き出す高圧のエアジェットが、近づこうとする亡霊たちを吹き飛ばしている。
『うぅぅ……』
『ま、待ってくれぇ……』
亡者たちの怨嗟の声も、エンジンの轟音にかき消され、ただの後方へのドップラー効果となって消えていく。
障害物も、怨念も、すべてを無効化する圧倒的な機動力。
これぞ、科学が生み出した「絶対不可侵の領域」だ。
「ま、待てぇぇぇ! 金は!? 金はどうすんだぁぁぁ!」
背後の岸辺では、奪衣婆が地団駄を踏んで叫んでいた。
だが、その姿はあっという間に豆粒のように小さくなり、霧の彼方へと霞んでいく。
彼女は理解できていないだろう。
自分が執着していた「三途の川」という最強の障壁が、ただの「平坦な道」として処理されたことを。
「ふふん。アステルPayを拒否した報いです」
ルナは操縦桿を握りながら、涼しい顔で風に乱れた前髪を払った。
「あのまま契約していれば、彼女も地獄のDX化の波に乗れたものを。……これぞ『売上機会の損失』ですね」
「お主、本当に容赦ないのう……。ま、せいせいしたわ!」
タマが高笑いする。
前方の霧が晴れていく。
対岸には、冥界のさらに奥深くへと続く荒野と、その先にそびえる『閻魔宮』の黒い影がおぼろげに見え始めていた。
「対岸まであと1分弱。……このまま上陸し、閻魔宮までノンストップで飛ばしますよ!」
『ワオンッ!!(了解ッ!)』
タロウが勇ましく吠える。
それは地獄の川を切り裂く一本の銀色の矢となって、未踏の領域へと突き進んでいった。
地獄で悪事を果たす、最強の無賃乗車チーム『チーム人外』が、冥界への侵入を華麗に果たした瞬間であった。
◇
時を同じくして、地獄の中枢――閻魔庁。
生前の罪を裁くその厳粛な場所は、今、剣呑な怒号や悲鳴ではなく、ある異質な音に支配されていた。
カチャカチャカチャカチャ……ッターン!
それは、地獄には似つかわしくない、キーボードを高速で叩く乾いた打鍵音だった。




