第145話:渡し賃、絶賛インフレ中!
次元の裂け目を越えた先は、光のない世界だった。
空は重苦しい鉛色に閉ざされ、大地はひび割れた乾燥した土と、鋭利な岩肌だけで構成されている。
吹き荒れる風は『瘴気』を含み、生者の肺を容赦なく蝕もうとする。
「……空気がまずいのじゃ。鉄錆と腐った卵を煮詰めたような臭いがするわ」
タマが顔をしかめ、袖で鼻を覆う。
ルナたち『チーム人外』は、四輪駆動モードに変形したタロウに乗って、荒野をひた走っていた。
そして数時間後。
彼女たちの視界を遮るように、巨大な「境界線」が姿を現した。
「……到達しました。ここが冥界の第一関門です」
ルナがタロウを停車させる。
目の前に広がっていたのは、対岸が見えないほど広大な、ドス黒く淀んだ大河だった。
川幅はおよそ数キロメートル。
水面からは、死者の怨念が凝縮されたような白い霧が立ち上り、視界を白濁させている。
チャプ、チャプ……と聞こえる水音に混じり、底の方から『ううぅぅ……』という無数のうめき声が響いてくる。
「……ふむ。これがいわゆる『三途の川』か」
タマが腕組みをして、崖の上から川を見下ろした。
かつて本で読んだ知識では、死者が彼岸へ渡るための神聖な場所のはずだが、現実はもっと世知辛く、汚らしい。
「思ったよりドブ臭いのう。もっとこう、神秘的な場所かと思っておったが……。これでは生活排水の溜まり場じゃな」
「臭いのだ。魚も住めなそうなのだ」
ポチも思わず鼻をつまむ。
ルナは、赤い瞳を明滅させて周囲をスキャンした。
「水質汚染レベル、計測不能。……成分の90%が『呪い』と『未練』で構成されています。有機物が触れれば、細胞レベルで溶解・吸収されるでしょう」
ルナが川辺の小石を拾い、ポイと投げ込む。
ジュッ!
水面に触れた瞬間、石が強酸に触れたように煙を上げ、さらに水中から伸びてきた無数の「蒼白い手」によって、深淵へと引きずり込まれていった。
「ひぃッ!? て、手が!」
「泳いで渡るのは不可能です。……橋もありません。浅瀬も見当たりません」
ルナの視線が、川岸にある朽ち果てたあばら屋と、そこの桟橋に係留された一艘の古びた渡し船に向けられた。
小屋の前には、一人の老婆が座り込んでいる。
肌は枯れ木のように干からび、眼窩はくぼみ、身にまとっているのはボロボロの着物だけ。
死者の衣服を剥ぎ取るという伝説の妖怪――奪衣婆だ。
「そこの老婆よ、船を出すのじゃ」
タマが偉そうに声をかけると、奪衣婆がギョロリと目を剥いた。
その目は、獲物を見る捕食者のそれだった。
「ヒヒッ……。生きている客とは珍しいねぇ。……渡りたければ『渡し賃』を払いな」
「渡し賃? ああ、六文銭か?」
タマが懐を探る。
古来より、三途の川の渡し賃は「六文」と相場が決まっている。
だが、奪衣婆は鼻で笑い飛ばした。
「六文? ケッ、いつの時代の話をしてるんだい! 今は物価高騰、燃料費高騰、それに鬼の人件費も上がってるんだよ!」
奪衣婆は、骨と皮だけになった指を突き出し、強欲な笑みを浮かべた。
「今の相場は一人につき、金貨100枚だ。四人なら400枚。……耳を揃えてさっさと出しな!」
「はぁぁ!? 100枚じゃと!?」
タマが素っ頓狂な声を上げて絶叫する。
金貨100枚といえば、庶民なら半年遊んで暮らせる金額だ。400枚なら、田舎の一軒家が買える。
「ボッタクリもいい加減にするのじゃ! たかが数キロの渡し船で、そんな大金払えるか!」
「嫌なら泳いで渡りな。……骨まで溶けて、川の水になるだけだけどねぇ、ヒッヒッヒ!」
奪衣婆が嘲笑う。
ここには競合がいない。完全なる売り手市場だ。
足元を見まくった価格設定。
まさに地獄のやり口だ。
「ぐぬぬ……! 足元を見おって……! 焼くか? このババア、ウェルダンに焼いてやろうか?」
タマの手のひらに火球が浮かぶが、ここで揉めて時間を浪費するのは得策ではない。
すると、今まで黙って分析していたルナが、一歩前へ出た。
「……交渉します」
ルナは無表情で奪衣婆の前に立つと、虚空にホログラムウィンドウを展開した。
「当方、現金の持ち合わせはありません。ですが、私たちはアステル王国の正式な事業者です。『電子決済』での支払いを提案します」
「あぁ? でんし……?」
奪衣婆が怪訝な顔をする。
ルナは構わず、自身のPDA画面に表示された二次元コード(QRコード)を提示した。
「『アステルPay』です。マスターが導入した、王国全土で使えるデジタル通貨です。これを導入すれば、あなたのビジネスは劇的に改善します」
「なんだとぉ?」
ルナは淀みなく、事業者向けのメリットをプレゼンし始めた。
「まず、現金の管理コストがゼロになります。重い金貨を数える手間も、保管する金庫も不要。売上は即座にあなたの口座へ振り込まれます」
ルナが指を一本立てる。
「次に、防犯対策です。ここには強欲な亡者や鬼がうろついていますよね? 現金を持っていれば襲われるリスクがありますが、デジタルデータなら盗まれる心配はありません」
さらに指をもう一本。
「極めつけに、今なら『地獄進出記念・加盟店手数料永年無料キャンペーン』を実施中です。通常3%の決済手数料が、今なら永久に無料。さらに、初回導入特典として金貨50枚分のポイントを付与します。ユーザーとしてもお得ですよ!」
完璧な営業トークだ。
業務効率化、リスクヘッジ、そして初期インセンティブ。
経営者なら飛びつく条件を並べ立てた。
しかし、奪衣婆は持っていた杖で、ルナのPDAを叩き落とした。
バシッ!
「訳の分からんことを言ってんじゃないよ! ここは地獄だよ! 古来より『現金一括払い』のみだ!」
「……非効率ですね。キャッシュレス化は時代の流れですよ? これだからBBAは……」
ルナがPDAを拾い上げ、やれやれと首を振る。
どれだけメリットを説こうと、相手にそれを理解するリテラシーがなければ意味がない。交渉は決裂……と思われたが、奪衣婆の目はさらにいやらしく細められた。
「うるさいねぇ! 金がないなら……その着ている服を置いていきな!」
奪衣婆の視線が、ルナたちの衣服、そしてポチの体に粘りつく。
「あたしは『奪衣婆』だ。金がない亡者からは身ぐるみを剥ぐのが決まりなんだよ。……特に、そっちの犬の毛皮は上等だねぇ。高く売れそうだ」
「ひぃッ!?」
ポチが悲鳴を上げて飛び上がり、タマの後ろに隠れる。
「剥がれるのは嫌なのだ! 寒いのは嫌なのだー! タマちゃん助けるのだー!」
「お、おい! 子供を脅すでない! この強欲ババアめ!」
タマがポチを庇って威嚇する。
だが、奪衣婆は薄汚いナイフを取り出し、舌なめずりをして迫ってきた。
「へっへっへ、選り好みしてる場合じゃないよ。渡るのか、剥がれるのか、ここで朽ち果てるのか……選びな!」
地獄の沙汰も金次第。金がなければ身を削れ。
それがここのルールだ。
だが、ルナの瞳が、スッと細められた。
その深紅の電子瞳孔の奥で、『交渉決裂』の赤い文字が激しく点滅する。
マスターならどうするか。
理不尽な要求に対し、愛犬の毛皮を差し出すだろうか?
否。
ならば答えは一つだ。
「……わかりました。現金がないなら船には乗せない、通さない。……というわけですね」
「へっ、やっとわかったかい。なら観念して脱ぎな!」
「いいえ」
ルナは冷徹に言い放ち、奪衣婆に背を向けた。
「通してくれないなら、私たちが勝手に『通る』だけです。……道がないなら、作ればいい」
ルナは背後に控えるタロウに向かって、パチンと指を鳴らした。
「タロウ、モードチェンジ。……『渡河形態』へ移行!」
『ワン!(了解!)』




