第144話:真紅の霧
ガコンッ!
工場の天井に張り巡らされた巨大な空調ダクトが、腹に響くような低い唸りを上げて逆回転を始めた。
本来、このシステムは石鹸製造の過程で発生する蒸気や熱気を、強力なファンで屋外へと排出するためのものだ。
だが今、テオの操作によって吸排気が逆転した。
外の新鮮な空気を猛烈な勢いで取り込み、圧縮し、逃げ場のない工場内部へと吐き出し始めたのだ。
ごうごうと風が吹き荒れる中、テオは懐から一本のガラス瓶を取り出した。
中に入っているのは、ドス黒いほどに濃い赤色の液体。
瓶の表面には、ドクロマークと共に『取扱注意』のラベルが貼られている。
「投入ッ!」
テオが躊躇なく瓶を投げ込んだ。
むろん、ただの瓶ではない。
火炎竜幼女・タマが「最近、どうも体が冷えるのじゃ」とぼやいた際に、晶が特別に調合した特製健康ドリンク『超濃縮カプサイシン液』、通称『マグマ』である。
エルフの国の専用農地で栽培された激辛唐辛子。
それを濃縮し、さらに特殊技術で辛味成分だけを純度99.9%まで抽出した、まさしく「飲むマグマ」である。
ガシャーン!
吸気口のファンに直撃した瓶が砕け散る。
粘度の高い赤い液体が高速回転するブレードに触れ、一瞬にして微細な粒子へと変わった。
逆流する暴風に乗った赤い霧が、換気口から工場内へ――そして密集する侵入者たちの頭上へと降り注いだ。
ブォォォォォ……!
「な、なんだこの赤い煙は!?」
「毒ガスか!? 風魔法で吹き散らせ!」
敵の魔導師が杖を掲げる。だが、遅い。
薄赤く染まった空気は、すでに彼らの肺の中へと侵入していた。
その直後。
「「「ギィヤァァァァァァッ!!!」」」
人間が出せる限界を超えた、断末魔のような絶叫が同時に上がった。
剣を取り落とし、盾を投げ捨て、数百の兵士が一斉に喉を掻きむしる。
「熱い! 喉が焼けるぅぅ!」
「目玉が溶ける! 息ができない! 助けてくれぇぇ!」
「み、水! 水をくれぇぇ!」
地獄絵図だった。
皮膚に触れるだけで、熱した鉄を押し付けられたような激痛が走る。
吸い込めば、気管支と肺の粘膜が灼熱地獄と化し、呼吸困難を引き起こす。
涙と鼻水が止まらず、視界は奪われ、立っていることさえままならない。
これは魔法ではない。生物学的な強制反応だ。
カプサイシンは、生物の痛み受容体『TRPV1』に直接結合し、「火傷をした」と脳に錯覚させる。
しかも、今回は竜であるタマ仕様の超高濃度だ。
人間にとっては、行動不能になるレベルの劇薬だ。
工場全体が、逃げ場のない巨大な「催涙ガス室」と化していた。
「げほっ、げほっ……! やべぇ、こっちまで目が痛ぇ……!」
晶考案のガスマスクを装着しているボルスたちでさえ、肌がピリピリと痛み、涙が滲んでいた。
完全防備でこれだ。無防備な敵兵に耐えられるはずがない。
「た、退却だぁ!!」
「逃げろぉぉ!」
先ほどまで「聖女の保護」などと嘯いていた威勢はどこへやら。
プライドも信仰心もかなぐり捨て、私兵団は鼻水と涙を垂れ流しながら、蜘蛛の子を散らすように出口へと殺到した。
生理的な苦痛を前にして、継戦など出来ようはずもなかった。
数分後。
静寂が戻った――いや、うめき声だけが響く格納庫の前には、一人取り残された男がいた。
枢機卿ベルナンドだ。
彼は豪奢な法衣を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにし、赤く腫れ上がった目で痙攣していた。
「お、おのれ……。神聖な騎士団に対し、このような悪魔の所業を……」
「悪魔? 失敬な」
テオがマスク越しに、冷ややかな視線を投げかけた。
「これはただの『食品添加物』ですよ。タマさんにとっては……ですが。人間には刺激が強かったかもしれませんね」
「貴様ら、神の罰が恐ろしくないのか……!」
敗北してもなお神を語るその口元に、巨大な刃が突きつけられた。
ボルスの戦斧だ。
「とっとと失せな。次来る時は、ちゃんと遺書を書いとくんだな」
ドスの利いた声に、ベルナンドの喉がヒクリと鳴った。
もはや反論する気力もない。全身の毛穴から火を吹くような痛みに耐えかね、彼は這いつくばるようにして逃走した。
「ひぃぃッ! 覚えておれ……! このままでは済まさんぞぉぉ!」
捨て台詞と共に、ハイエナの親玉は無様に姿を消した。
工場防衛戦、第一ラウンド。
高圧洗浄機と、消毒液と、激辛スパイスによる、防衛側の勝利であった。
「……ふぅ。なんとか追い返したな」
ボルスがマスクを外し、額の汗を拭った。
勝った。だが、その表情に笑顔はない。
誰もが肩で息をし、疲労困憊だった。
弾薬は尽きかけ、テオの魔力も底が見えている。
今回は奇襲と「初見殺し」で撃退できたが、敵が対策を立てて本気で攻めてくれば、次はこうはいかないだろう。
ボルスは振り返り、分厚い氷壁の向こうで眠る晶を見つめた。
守ることはできた。だが、救うことはまだできていない。
この氷が溶ける前に、あるいは敵の第二波が来る前に、晶の魂が戻らなければ、全ては終わる。
「頼むぜ、ルナ……。こっちはいつまで持つか分からねぇ」
ボルスは、天井のダクトの隙間から見える、鉛色の空を見上げた。
その遥か向こう。
次元の裂け目を越えた先にある、死者の国へと想いを馳せる。
「早く社長を連れ戻してくれ。……じゃないと、俺たちの身がもたねぇ」
地上での防衛戦がひと段落した一方。
次元の壁を越えた冥界では、ルナたち『チーム人外』が、第一の難所に直面していた。
現世と冥界を分かつ、絶対不可侵の境界線――『三途の川』が、彼女たちの行く手を阻んでいたのである。




