第131話:チビ助の仁義
しかし、そんな無敵の進撃も、深度が増すにつれて翳りを見せ始めた。
深度8000メートル。
そこは、太陽の光が一度たりとも届いたことのない、永遠の闇。そして、水圧という見えざる死神が、生物の限界を無慈悲に試し始める領域だ。
『ヴォ……』
一頭、また一頭と、護衛のクジラたちが動きを鈍らせ始めた。
彼らの強靭な筋肉が痙攣し、口の端から苦しげな泡が漏れる。これ以上の深入りは、深海の王者たる彼らにとっても命に関わる危険領域なのだ。
群れを率いる長老が、申し訳なさそうに『わだつみ号』を見つめ、別れの挨拶を告げるように短く鳴いた。
彼らはここで引き返す。それが生物としての正しい判断だ。
「ありがとうなのだー! 達者でなー!」
ポチが窓に張り付いて大きく手を振る。
巨体の群れがゆっくりと反転し、上層の闇へと消えていく。
だが、たった一頭だけ、群れに戻ろうとしない個体がいた。
チビ助だ。
『ヴォォ……ッ!』
彼は軋む体に鞭を打ち、離脱を促す長老の制止を振り切って、なおも船の横を泳ぎ続けた。
「おい、あの馬鹿! 自分も限界だろうが!」
晶が叫ぶ。
チビ助の皮膚からは、すでに血管が破裂したのか、赤い血の霧が滲み出していた。その泳ぎは明らかに悲鳴を上げている。
それでも彼は、恩人であるこの小さな銀色の船を、独りぼっちにはできないと意地を張っているのだ。
その時、ソナーが不吉な警告音を鳴らした。
「警告。高速接近する熱源あり。……この深度に適応した捕食者です」
ルナの声と同時だった。
闇の向こうから、音もなく伸びてきた「白い鞭」が、わだつみ号の船体を捉えたのは。
ガギィンッ!!
「うわあっ!?」
船が激しく揺さぶられる。
現れたのは、半透明の白い身体を持つ、巨大なイカの化け物だった。
アビス・クラーケン。
その触手には鋭利なカギ爪が無数に生え、逃げる獲物を決して逃さない死の抱擁を仕掛けてくる。
「くそっ、この深度じゃ魚雷も効かないか!ルナ、スタンガンは!?」
「マスター、重なる戦闘による電力消費から回復しきれていないため使えません」
晶が歯噛みする。
締め上げられる船体。防壁のエネルギー残量が削られていく。
その絶体絶命の窮地を救ったのは……
『ヴォォォォォンッ!!』
チビ助だった!
裂帛の気合いと共に、チビ助がクラーケンに体当たりを敢行したのだ。
ズドンッ! と重い衝撃が海水を震わせる。
わだつみ号を締め上げていた触手が緩んだ。
「助かった……! でも、あいつ……!」
テオが悲鳴のような声を上げる。
チビ助の状態は満身創痍だった。
本来なら一撃で粉砕できる相手かもしれない。だが、深度8000の水圧が彼の手足を縛り、動きを鈍らせているのだ。
対するクラーケンは、この深度を狩場とする生粋の住人。動きのキレが違う。
鋭い触手が鞭のようにしなり、チビ助の皮膚を容赦なく切り裂いていく。
鮮血が舞う。
それでも、チビ助は退かなかった。
彼はわだつみ号を背に庇い、決して敵をこちらへ通そうとはしない。
ボロボロになりながら、己の身を盾にして噛みつき、尾を叩きつける。
けなげで、愚直なほどの忠義。
『ギシャァァァ……!』
数分の攻防の末、片腕をもぎ取られたクラーケンが、墨を吐いて深淵へと逃げ去っていった。
静寂が戻る。
だが、勝利の代償は大きかった。
チビ助は力なくその場を漂っている。
生きてこそはいるが全身は傷だらけ。巨体を維持するだけでも精一杯に見えた。
「……どうして、そこまでするんだよ」
ボルスが男泣きする。
言葉も通じない、種族も違う。たった一度、群れの場所を教えただけの相手に、これほどの義理立てをするというのか。
ルナもまた、ガラス越しに静かに見つめていた。
「……非合理的です」
彼女は誰にも聞こえないよう、そっと呟いた。
「生存本能よりも恩義を優先する思考。計算式が成り立ちません」
ルナが立ち上がり、窓辺へと歩み寄る。
「ですが――そのエラーだらけの魂の在り方……嫌いではありません」
ルナは強化ガラスにそっと細い指を這わせた。
漆黒の海。
その向こう側には、巨大なクジラの瞳が、弱々しくも優しい光を宿してこちらを見ていた。
窓枠を挟んで、少女と巨獣が対峙する。
冷たい機械の少女と、温かい血の通った獣。
あまりにも不釣り合いで、けれど、一枚の絵画のように幻想的な光景だった。
「マスター。もう一度『セッション』を行います」
「あぁ。……礼を言ってやってくれ。あと、アレを全部使ってやれ!」
「えっ!アレを全量使うんですか!?」
「あぁ、チビ助がいなかったら、今ごろ死んでたかもしれんからな。だから、あいつを絶対生かして帰すぞ!」
「了解しました、マスター」
「あぁ、絶対生かして帰せ!」
ルナの瞳の奥で、幾何学模様の光が高速で明滅を始める。
彼女は再び、歌い出した。
ただし今度は、威嚇や交渉のための攻撃的なデータではない。
指向性の高い、彼だけに届く、感謝とねぎらいの歌だ。
キィィィィン……。
人間には聴こえない、しかし魂を震わせるような高周波の歌声が、深海の闇に溶けていく。
(ここまでで十分です。勇敢なる戦士よ)
ルナの意思が、音波に乗ってチビ助の脳に直接響く。
それは冷徹なデータ通信でありながら、不思議と母のような温かさを帯びていた。
(あなたは傷つきすぎました。これ以上の護衛は、契約の範囲外です)
『ヴォゥ……?』
(帰りなさい。あなたの家族が待っています。……ここで朽ちるには、あなたはあまりに惜しい)
チビ助が、驚いたようにつぶらな瞳でルナの方を見た。
窓越しに視線が絡み合う。
ルナは無表情のまま、しかしどこか慈しむように、コクリと一つ頷いてみせた。
そしてさらに。
ルナがコンソールを操作すると、船体外部のハッチが開き、一本のシリンダーが吐き出された。
それを待機していた作業用アームがガシッと掴み取る。
ルナはアームを操作し、チビ助の身体付近でそれを握りつぶした。
パリンッ、と液体が広がり、チビ助の傷口にかかると、みるみるうちに傷が塞がっていく。
セシリアの回復魔法を込めた聖水、「回復の秘薬」である。
それは、仲間たちが傷ついたときの回復手段として、晶が隠し持っていた「奥の手」だった。
だが、晶にとって、身を盾にして守ってくれた相手に使わない、などと言う選択肢は絶対にあり得なかったのだ。
(チビ助もチビ助なら、マスターもマスターですよ……)
アームの遠隔操作によりチビ助を回復させたルナ。
そして、ガラス越しにルナを見つめるチビ助。
薬の効果か、それとも感謝の意志が伝わったのか。チビ助の瞳に、力強い光が戻ってくる。
彼らに言葉はいらなかった。
電子の心と、野生の心が、氷のように冷たいガラス越しに触れ合った瞬間だった。
『ヴォォォォ……』
チビ助は長く、切ない声を上げた。
それは別れを惜しむ声であり、同時に、自分の役目を認めてくれた友への感謝の響きだった。
巨体がゆっくりと反転する。
彼は最後にもう一度だけ、名残惜しそうに『わだつみ号』の周りを旋回すると、傷跡は残るものの、力強く尾びれを振って、上層の闇へと姿を消していった。
「……行っちゃいましたね」
テオが鼻をすすりながら呟く。
「ああ。いい男だったぜ、あいつは」
ボルスが目元を拭う。
頼もしい相棒がいなくなった船内には、再び重苦しい静寂と、冷却ファンの駆動音だけが残された。
絶対的な孤独。
しかし、先ほどまでの恐怖は薄れていた。
あの不器用なクジラが残していってくれた温もりが、まだ船内に漂っている気がしたからだ。
「……通信終了。通常モードへ移行します」
ルナが席に戻り、淡々と告げた。
その横顔はいつも通りの冷徹なアンドロイドのものだったが、晶は気づいていた。
彼女が座るコンソールの端に、一滴の雫のような結露が落ちていることを。
「さて……ここからは我々だけだ」
晶は何も聞かず、スロットルを静かに押し込んだ。
わだつみ号は、単騎で未踏の深淵へと沈んでいく。




