第130話:深海のコミュニケーション
深度4000メートル。
水漏れ騒動を解決し、ジュウモンジダコとの悲しい別れを経た『わだつみ号』は、順調に深度を下げていた。
窓の外は、もはや「闇」という言葉すら生温い。
光も、音も、温度さえも存在しない、絶対的な虚無の世界だ。
船内には、冷却ファンの回る低い駆動音だけが響いている。
ボルスとテオは、先ほどの騒動の疲れか、あるいは深海の重圧に当てられたのか、口数を減らしてぼんやりとコンソールを眺めていた。
「……なぁ、テオ」
「なんですか、ボルスさん」
「なんか……聞こえねぇか?」
ボルスがふと、耳をそばだてた。
「聞こえるって、エンジンの音でしょう?」
「いや、違う。もっとこう……綺麗な……」
ボルスが夢遊病者のようにふらりと立ち上がり、窓に顔を近づけた。
「……あぁ、母ちゃんだ」
「は?」
「死んだ母ちゃんが、川の向こうで洗濯してる……。おーい、母ちゃーん。俺だ、ボルスだー」
ボルスが虚ろな目で窓に手を振る。
テオがギョッとして立ち上がろうとするが、彼もまた、急にガクンと膝の力を抜いた。
「……あぁ、本当だ。お花畑が見えます……」
「テオ!?」
「もう働かなくていいんだ……。このまま沈んでいけば、楽になれる……」
テオがヘラヘラと笑いながら、生命維持装置のスイッチを切ろうと手を伸ばす。
「おい、おまえら! しっかりしろ!!」
異変に気づいた晶が、即座に立ち上がった。
手には、なぜか常備していたピコピコハンマーが握られている。
パコォッ!!
パコォッ!!
乾いた音が二回、船内に響いた。
「あだっ!?」
「痛っ!? な、何するんですか社長!」
脳天をひっぱたかれた二人が、正気に戻って頭を押さえる。
「あぁ? 俺、今なにを……母ちゃんは?」
「僕は有給休暇を……」
「寝言を言うな。しっかり意識を保て、死ぬぞ!?」
晶はハンマーを弄びながら、不機嫌そうにモニターを睨んだ。
「……聞こえるか? この音だ」
晶に言われ、二人が耳を澄ます。
すると、船体の微かな振動と共に、どこからともなく『歌声』のような音が響いてきているのがわかった。
女性のハミングのようでもあり、風の唸りのようでもある。美しく、そしてどこか物悲しい旋律だ。
「な、なんですかこれ……。まさか、幽霊?」
「伝説の『セイレーン』か!? 歌声で船乗りを惑わせて沈めるっていう!」
「呪いとかじゃないですよね!? 僕、塩持ってきてないですよ!」
怯える二人に対し、晶は冷静にソナーの波形を指差した。
「非科学的なことを言うな。これは呪いでも心霊現象でもない。ただの物理攻撃だ」
「物理……?」
「この音波の周波数を見ろ。極めて低い低周波だ。これが人間の脳の側頭葉――特に聴覚野と海馬を共振させ、記憶の混乱や幻覚を引き起こしているだけだ。さっきハンマーで殴ったのは、痛覚刺激で脳内物質を分泌させ、強制的に共振をリセットするためだ」
「だ、だけって……殴れない敵とか、一番タチが悪いじゃないですか!」
ボルスが耳を塞ぐが、音は頭蓋骨に直接響いてくるようで効果がない。
一方、人間とは脳の構造が違うポチとタマ、そして、そもそも脳がないルナには効果がないようだ。
「……で、社長は平気なんですか?」
テオが涙目で尋ねる。
確かに、晶だけは涼しい顔でコーヒーを啜っている。
テオの問いに答えたのは、晶ではなくルナだった。
「不思議ですね。……スキャンしました」
ルナが横から淡々と口を挟んだ。
「マスターの大脳皮質は、現在『理想のFカップおっぱい』を構築するシミュレーションだけで埋め尽くされています。その強固な煩悩が、精神干渉波を完全にブロックしているようです」
「主らしいのじゃ。そんなに胸の脂肪が……あ、いや、なんでもないのじゃ!」
失言に気づいたタマが、慌てて口をつぐむ。そして、誤魔化すように梅昆布茶入りのコップに七味をかける。
「ってか、煩悩が最強の精神防御になってるんですか!?」
テオが呆れ返った、その時だ。
「ねぇあきら、なんかうるさいのが近づいてくるのだ」
「ソナーに感あり。……巨大です」
ルナが警告を発した直後。
前方の闇が、ぐわり、と動いた。
「ヒッ……!」
テオが息を呑む。
現れたのは、わだつみ号が豆粒に見えるほどの、圧倒的な質量だった。
全長、推定30メートル。
岩石のようにゴツゴツとした灰色の皮膚に覆われた、巨大なクジラのような魔獣――『アビス・ホエール』だ。
その巨体が、ゆらりと船の横を通り過ぎる。
クジラが口を僅かに開くたびに、周囲の海水がビリビリと震え、可視化できるほどの衝撃波が放たれている。
「で、デカすぎる……!」
「あんなのにぶつかられたら一発アウトだぞ!」
「落ち着け。向こうに敵意はない」
晶はモニターの解析データを眺めながら言った。
「あれは威嚇の咆哮じゃない。仲間を探すための『呼び声』だ。深海には『サウンドチャネル』と呼ばれる音の通り道がある。奴らはそれを使って、数千キロ先の仲間と通信しているんだ」
「通信……?」
「そうだ。だが、出力が高すぎて、近くにいる人間にとっては脳を揺さぶる精神攻撃になっている。……要するに、『音量調節の壊れた拡声魔道具』が、最大出力で暴走しながら泳いでいるようなもんだ」
「迷惑すぎるだろ!」
クジラは悲しげに鳴きながら、わだつみ号の周囲を旋回し始めた。
どうやら、この銀色の球体を見つけ、仲間か何かと勘違いしているのか、巨体を擦り寄せてこようとする。
「ちょ、社長! 寄ってきてます! ぶつかる、ぶつかる!」
「あの巨体でじゃれつかれたら潰されますよ!」
「魚雷! 魚雷撃ちましょう!」
「馬鹿者、この水圧下じゃ、爆薬なんて豆鉄砲だ。衝撃波も減衰して届かんわ!」
晶は舌打ちをし、隣のルナを見た。
「ルナ。アイツと『セッション』だ」
「セッション、ですか?」
「そうだ。物理攻撃がダメなら、データ攻撃だ。奴の歌と同じ周波数の音波をぶつけて干渉を打ち消せ。そして――こちらの意思を叩き込め」
晶の無茶振りに、しかしルナは静かに頷いた。
彼女の瞳の奥で、幾何学模様の光が高速で回転し始める。
「了解。音響システム、最大出力へ。……聴かせます、私のソウルを」
ルナがコンソールに手をかざす。
次の瞬間。
キィィィィィィィィン……!!
人間には聴き取れない高周波の音が、船外スピーカーから放たれた。
同時に、ルナの口から、透き通るような「歌声」が紡がれる。
それは言葉のないアリアだった。
だが、ただの歌ではない。音の強弱、ピッチの揺らぎ、その全てに膨大なデジタルデータがエンコードされた、「対話のためのプログラム」だ。
ビリビリビリッ!
船内の空気が震える。
クジラの放つ重低音のソナーと、ルナの放つ高周波の歌声が海中で衝突し、物理的な振動となってわだつみ号を揺さぶる。
「うおぉっ!? 揺れる揺れる!」
「ルナちゃんの歌声、物理的に重いですぅぅ!」
ボルスとテオが何かに掴まって耐える中、奇跡が起きた。
不協和音を奏でていた二つの音が、次第に重なり合い、一つの美しいハーモニーへと変わっていったのだ。
クジラの悲痛な鳴き声が止み、代わりに穏やかなハミングのような音が返ってくる。
「……コミュニケーション、成立」
ルナが歌うのをやめ、静かに告げた。
瞳の明滅が止まる。
「プロトコル同期完了。……マスター、彼の言葉がわかります」
「ほう。あのデカブツ、何と言っている?」
ルナは少し首を傾げ、翻訳した言葉を伝えた。
「『寂しい』。『腹減った』。『ここどこ?』……だそうです」
「……は?」
「どうやら、群れからはぐれて迷子になっているようです」
晶は大きくため息をついた。
「なんだ、図体は山みたいにデカいくせに、中身はただの子供か」
「か、可愛いこと言うじゃねぇか……」
「ボルス、情を移すな。だが、利用価値はある」
晶はニヤリと悪い顔をした。
「ルナ、奴に伝えろ。『俺たちが群れがいる方向に案内してやる。だから、それまでボディーガードをしろ』と」
「ラジャ。送信します」
ルナが再び短い歌を放つ。
すると、アビス・ホエールは嬉しそうに「ヴォォォン!」と大きな声で応え、わだつみ号の横にピタリと並んだ。
まるで、親の後をついていく小犬のようだ。
……サイズは逆だが。
「よーし、交渉成立だ! 最強の肉壁が手に入ったぞ!」
「肉壁って言っちゃったよこの人……」
「でも、これなら他の魔物は寄ってこないですね!」
テオの言う通りだった。
深海の王者のような巨体が護衛についたことで、それまで遠巻きにこちらの様子を窺っていた中型の魔物たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「これで邪魔者はいない。一気に最深部へ向かうぞ!」
晶がスロットルを全開にする。
巨大なクジラを従えた銀色の球体は、悠々と深海の闇を切り裂き、ついに人類未踏の領域――海底1万メートルを目指して急潜行を開始した。




