第129話:宴のあとの悲劇?
狂乱のアンコウ鍋パーティーから、1時間が経過した。
直径3メートルの狭小空間である『わだつみ号』の内部は、地獄のような様相を呈していた。
いや、血生臭い意味ではない。
もっと生活臭のする、じめっとした地獄だ。
濃厚なドブ汁を完食し、満腹になったボルスとテオは、狭い床に折り重なるようにして雑魚寝をしていた。
ポチも満腹で、テオの腹の上でヘソ天で寝ている。
問題なのは、その空気だ。
ただでさえ狭い密閉空間に、成人男性たちの熱気、ポチの体温、そして先ほどまでグツグツと煮立っていた鍋の蒸気が充満している。
室温30度、湿度100%。
ここは深海2000メートルにある、男臭いサウナと化していた。
「……んぅ……」
不快な寝苦しさに、テオが呻き声を上げた。
その時だ。
ピチャッ。
額に、冷たい雫が落ちてきた。
「……? 冷たっ」
テオが薄目を開ける。
ぼんやりとした視界の先、天井のステンレス板がギラリと光り――そこから、次の一滴が今まさに滴り落ちようとしていた。
ポタリ。
その雫が鼻の頭で弾けた瞬間、テオの脳内で「最悪の想像」が炸裂した。
「み、水だぁぁぁぁッ!!」
テオの悲鳴が、蒸し暑い船内に響き渡った。
「うおっ!? なんだ、敵襲か!?」
「違います! 水です! 浸水してます! 天井からも壁からも、水が漏れてますぅぅ!」
「な、なんだと!?」
ボルスが跳ね起き、壁を見る。
そこには、びっしりと水滴が付着し、いくつもの筋となって床へと流れ落ちていた。
床にはすでに、小さな水溜まりができている。
「穴が開いたのか!? さっきの巨大アンコウに齧られた場所か!?」
「いやぁぁぁ! 死ぬぅぅ! 水圧でペシャンコだぁぁ!」
「救命胴衣! 救命胴衣はどこだテオ!」
「そんなの着てても潰れてミンチですよぉぉぉ!」
半狂乱になった男二人が、狭い船内で右往左往する。
その騒ぎに、操縦席で仮眠をとっていた晶が、不機嫌そうに身を起こした。
「……うるさいな。食後の眠りを楽しんでいたのに、何の騒ぎだ」
「社長! 寝てる場合じゃないですよ! 浸水です! 俺たちもう終わりです!」
涙目のテオが晶に縋り付く。
晶はあくびを噛み殺しながら、壁を伝う水を指先でぬぐい取った。
そして、躊躇なくその指を口に入れた。
ペロリ。
「ああっ! 社長、汚い海水を!?」
「……ふむ」
晶は味を確認するように舌を鳴らし、鼻で笑った。
「騒ぐな、しょっぱくない」
「は?」
「これは海水じゃない。ただの蒸留水だ」
「じょうりゅう……すい?」
キョトンとするボルスとテオに、晶は呆れ顔で解説を始めた。
「外の水温は4度だ。対して、今の船内は何度だと思ってる? お前らのむさ苦しい熱気と鍋の余熱で30度を超えているぞ」
「あ……」
「冷え切ったステンレスの外殻と窓ガラスに、高温多湿の空気が触れればどうなる?」
「ま、まさか……」
「そう、ただの『結露』だ。冬の朝の窓ガラスと同じだよ。お前らがハァハァ息をして、狭いところで汁物を煮炊きしたせいで、この艦全体が巨大な加湿器になったんだ」
晶の言葉に、二人は脱力してその場にへたり込んだ。
「け、結露かよ……。寿命が縮んだぜ……」
「良かったぁ……圧死するかと思いました……」
「良くはないぞ」
安堵する二人に、今度はルナが冷ややかな声を浴びせた。
『警告。船内湿度98%。このままでは、サーバーおよび操縦パネルの内部回路にて結露が発生、ショートする危険性があります』
「そいつはマズいな。万が一ルナが壊れたら浮上できん」
晶は工具箱を取り出すと、壁の一部を剥がし始めた。
「ちっ、しかたない。……即席のリフォームだ」
晶は、船内を冷やすための冷却パイプの断熱材を剥ぎ取り、金属パイプを剥き出しにした。
さらに、そこへ手持ちの小型ファンを固定し、風を当て始めた。
「何をしてるんですか?」
「『強制結露・除湿ユニット』だ。湿気というのは、一番冷たい場所に集まる性質がある。だから、意図的に『一番冷たい場所』を作ってやり、そこに水分を集約させる」
晶の狙い通り、剥き出しになった冷却パイプには、またたく間に大量の水滴が付着し始めた。
その水はパイプを伝い、下に設置したポリタンクへとポタポタ落ちていく。
数分もしないうちに、船内の空気がカラッとし始めた。
窓ガラスの曇りも取れ、クリアな視界が戻ってくる。
「すげぇ……一瞬でサウナじゃなくなった」
「さすが社長! でも、最初からやってくださいよ!」
「ふん。……ほら見ろ、タンクに水が溜まったぞ」
晶はタンクに溜まった透明な液体をチャプチャプと揺らしてみせた。
「貴重な真水だ。鍋のスープの蒸発分と、お前らの汗と吐息が凝縮された純水だぞ。飲むか?」
「「死んでもイヤです!!」」
ボルスとテオが全力で拒否した。
◇
湿度が下がり、窓ガラスの結露が消えたことで、再び深海の景色が見えるようになった。
暗黒の世界だが、わだつみ号のライトに照らされた範囲だけは、幻想的な青色に染まっている。
「あっ! あきら見て! あそこに何かいるのだ!」
窓にへばりついていたポチが、尻尾をブンブン振って声を上げた。
ポチの視線の先。
窓の外に、オレンジ色をした平べったい生物が張り付いていた。
短い足の間には膜があり、まるでパラシュートのような形をしている。耳のようなヒレをパタパタと動かす姿は、なんとも愛らしい。
「お、ジュウモンジダコか。深海のアイドルだな」
「可愛いのだ! パタパタしてるのだ!」
ポチは目を輝かせ、窓ガラス越しにその生物をツンツンしようとしている。
「飼いたいのだ! ここを開けて入れるのだ!」
「ダメだ」
晶は即答した。
「なんでなのだ? こんなに可愛いのに。ボルスたちより場所も取らないのだ」
「場所の問題じゃない。ここを開けて入れた瞬間、そいつは溶けるぞ」
晶の不穏な単語に、ポチの動きが止まった。
「と、とける……?」
「そうだ。ポチ、深海のタコは地上のタコと違って、筋肉なんてほとんどないんだ」
晶はタコの絵を描いて説明した。
「こいつらの体は、200気圧の水圧に潰されないよう、全身が水分たっぷりの『ゼリー』みたいにできている。外からギュウギュウに押されることで、ようやくあの形を保っているんだ」
「うん」
「それを、1気圧しかないこの船内に入れたらどうなる? 形を保つための外側の押さえがなくなるんだ」
「……?」
「自重を支えきれずに組織が崩壊する。ドロドロの鼻水みたいなスライムになって、床に広がるだけだぞ」
晶は手のひらから何かが零れ落ちるジェスチャーをした。
「タロウみたいな綺麗なスライムじゃない。生臭い、ドロドロの肉汁の塊になる。……それでも飼いたいか?」
「ひっ……」
ポチが悲鳴を上げて後ずさる。
あまりにリアルでグロテスクな説明に、ボルスとテオも顔を引きつらせた。
さっきまで愛らしく見えていた窓の外のジュウモンジダコが、急に「水圧でギリギリ形を保っているだけのゲル状物体」に見えてくる。
「かわいそうだから、やめとくのだ……」
ポチは涙目で窓の外に手を振った。
「バイバイなのだ……。達者で暮らすのだ……」
ジュウモンジダコはポチの別れの言葉に応えるようにパタパタと耳を動かしながら闇の奥へと消えていった。
「よし、湿度も正常値に戻ったな。再出発するぞ」
「へいへい……。なんか、夢のない授業だったな」
晶が再び操縦桿を握る。
わだつみ号はゆっくりと降下を再開した。
「現在の深度3,000。……漸深層を下降中。まもなく4,000、深海層へ突入する」
船内の空気は乾いたが、窓の外の闇はさらに濃くなっていく。
次なる脅威が、音もなく近づいていることにも気づかず、一行はさらなる深淵へと沈んでいった。




