第128話:深海のナベパ
「ラジャ。……マスター、普通の鍋はないのですか?」
「馬鹿者。密閉空間でガスコンロを使ったら、酸欠と一酸化炭素で全員あの世行きだぞ? 熱源は電気一択だ」
晶は、容量5000ml(5リットル)の特大ガラス製ビーカーと、金属製の投げ込み式ヒーターを取り出した。
それはもはやビーカーというより、透明なバケツに近いサイズ感だ。
「この『投げ込み式ヒーター』を使うには、浅い鍋より、深さのあるビーカーが熱効率的にも最適なんだ。……ほらボルス、股を開け。そこに挟む」
「は? 股……ですか?」
「テーブルを置く場所がないからな。お前が人間五徳になれ」
「ご、五徳……!?」
言われるがままに股を開いたボルスだったが、ずっしりと重い5リットルの液体がビーカーの中で沸騰し始めると、顔色を変えた。
「ちょ、社長!? 煮立ってますよこれ! 重いし熱いし、俺の股が焼肉になっちまいますって!!」
「騒ぐな。これはただのビーカーじゃない。二重ガラスの間を真空にした『透明デュワー瓶』、要するに真空断熱ビーカーだ」
「でゅわー……?」
「真空層が熱伝導を遮断しているから、外側は熱くない。普通の魔法瓶は熱放射を防ぐために銀メッキをして中身が見えなくするが、具材の煮え加減を確認したいから、あえて透明に作った」
「……あ、本当だ。熱くないっすね」
「外は冷たいが、中は熱湯だ。断熱効果が高いから、火を止めても余熱で骨まで柔らかくなるぞ」
「性能は認めますけど……やっぱり社長、股の間で巨大な瓶から湯気が立つこの絵面、最悪ですよ! 内腿がプルプルしてきました……!」
「贅沢を言うな。一番安定する場所がそこなんだ。筋トレだと思って耐えろ」
湯気の立つ、金色のスープがなみなみと入った特大瓶を、必死の形相で股で挟むボルス。
その姿は、拷問を受けているようにも、何かを産み落とそうとしているようにも見え……とにかく、シュールであった。
狭い船内に、何とも言えない濃厚な、海の香りが充満し始めた。
「……ごくり」
さっきまで青ざめていたボルスの喉が鳴った。
「ふふっ、正直な体だな。……ここに、持参した味噌を溶き入れる。水は一滴も使わない。野菜から出る水分と、この肝の脂だけで煮込む――これぞ漁師料理の極意、『ドブ汁』スタイルだ!」
味噌が溶け、肝の脂と混ざり合い、とろりとした濃厚なスープが出来上がる。
そこに、ぶつ切りにしたアンコウの身と皮、ネギ、野菜を投入し、さらに煮立たせる。
グツグツグツ……。
食欲をそそる音と、暴力的なまでの旨味の匂いが、密室を満たしていく。
「……もう我慢できません! 社長!!」
「私も!!」
「いいだろう、食え!」
ボルスとテオが、熱々のビーカーに箸を伸ばした。
ハフッ、ハフッ……!
「!!」
「こ、これは……ッ!」
二人の動きが止まった。
「うめぇぇぇぇッ!! なんだこの濃厚さはぁぁぁ!!」
ボルスが絶叫した。
「肝のコクが、味噌と絡み合って……口の中で爆発しやがる! 身もプリプリで、皮はトロトロだ! ちくしょう、酒だ! 誰か酒を持ってこいぃぃ!!」
「お、美味しいですぅぅ! 見た目はグロテスクでしたけど、味は天国ですぅぅ!」
テオも嬉し泣きでアンコウの身を頬張る。
「マスター、この皮の部分……コラーゲンの含有量が凄まじいです。私の人工皮膚がプルプルになりそうです!」
「ボクも食べるのだ! アンキモ最高なのだ!」
「アンキモ。なかなかの美味じゃのう。このようなものを食したのは、生まれて初めてなのじゃ!」
ルナとポチ、そしてタマも参戦し、狭い船内は一気にカオスな鍋パーティー会場と化した。
「フッ、どうだ。これが深海の味――科学と食欲の勝利だ」
晶も満足げに肝を口に運ぶ。
濃厚な脂の甘みが、疲労した脳に染み渡っていく。
窓の外では、血の匂いに誘われた他の深海魚たちや、遠巻きに様子を窺っていた半魚人たちが、無惨に解体されたアンコウの残骸を見て震え上がっていた。
「ヒィィッ! ヌシ様が……食べられた……」
「神様は……飢えておられるのだ……」
「もっと捧げろ! もっとご馳走を捧げないと、我々も喰われるぞぉぉ!」
半魚人たちの信仰心が、恐怖によって変な方向へねじ曲がっていることなど知る由もなく。
直径3メートルの密室で繰り広げられた狂乱の宴は、鍋が空になるまで続いたのだった。




