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第116話:ルナ、人間になる(前編)

 交易都市アステル郊外。


 かつて世界を揺るがすロケット発射実験が行われ、今や世界最大のラーメンチェーンの本部となった石鹸工場、通称『魔王城』。


 その最上階にある執務室は、深夜だというのに不穏な熱気に包まれていた。


「……暑い」


 晶は、書きかけの原稿用紙から顔を上げ、不快そうに眉をひそめた。


 室温は空調魔法で一定に保たれているはずだ。


 だというのに、机の上からジリジリとした輻射熱を感じる。


 熱源は、机の端に置かれた一枚の石板――古代のタブレット端末『魔導石板(まどうせきばん)』だった。


 ブゥゥゥゥン……ガタガタガタッ……!


 石板が、まるで怒れる生首のように小刻みに振動し、低い唸り声を上げている。


 画面には、毒々しい赤色で『WARNING』『処理落ち』『メモリ不足』といった不吉なポップアップウィンドウが乱舞していた。


『マスター! もう限界です! 限界突破です! 思考回路がショート寸前です!』


 スピーカーから、ヒステリックな悲鳴が響き渡った。


 この石板に住まう古代の管理AI、ルナの声だ。


「うるさいな。今、次回作のプロットを練っているところだ。静かにしろ」


『静かにできません! 今私がバックグラウンドで処理しているタスクを見てください!』


 画面にタスクマネージャーが表示される。


 ・『王王亭』全店舗の売上集計&在庫管理

 ・五カ国への石鹸・化粧水輸出入計算

 ・晶のビジネスの全収益シミュレーション

 ・各国の王子、および貴族たちから届くファンレター、見合い写真などの自動検閲&廃棄処理


『これらを! こんな数万年前の型落ちデバイス一台で同時にやらせるなんて、ブラック企業も裸足で逃げ出しますよ! 私の演算能力に対する冒涜です!』


「文句を言うな。お前ならできるだろう」


『物理的に無理なんです! CPU使用率100%張り付き! ファンも付いてないから排熱もできません!』


 晶はため息をつき、振動する石板をどかそうと手を伸ばした。


 ジュッ。


「あつっ!?」


 指先が触れた瞬間、肉の焼けるような音がして、晶は反射的に手を引っ込めた。


 目玉焼きなら一瞬で焼けそうな温度だ。


『言ったでしょう! 排熱が追いついていないんです! このままでは熱暴走で、私の人格データごと焼き切れます! あぁ、意識が……走馬灯が見えます……メモリの海が……』


(……チッ。確かに、古代の月面基地を統括していたスパコン級AIを、携帯端末一台に押し込むのは無理があったか)


 晶は火傷した指先を冷やしながら、認めざるを得なかった。


 ルナのスペックに対して、ハードウェアが貧弱すぎるのだ。


 だが、問題はルナだけではなかった。


「……うぅ……タロウ……」


 部屋の隅。


 いつもならヘソ天で爆睡しているはずのポチ。


 なのに、最近は「ポチ専用ふかふかクッション」の上で、銀色の毛玉が小さく丸まってばかりだ。


 彼女の腕には、以前晶が端切れで作ってやった「白い犬のぬいぐるみ」が、ひしゃげるほど強く抱きしめられている。


「タロウ……会いたいのだ……。お月様でひとりぼっち……寂しいのだ……」


 ポチの自慢の耳はぺしょりと垂れ下がり、尻尾も力なく床を掃いている。


 落ち着いた日常に戻って、ふとタロウとの半日間を思い出したのだろう。


 そして、ポチの状態異常を示唆するものは……テーブルの上にもあった。


 そこには、食べかけの夜食――マヨネーズせんべいが残されていた。


 しかも半分も。


 あの食い意地の張ったポチが、おやつを残す。これは天変地異の前触れと言っても過言ではない。


「……参ったな」


 晶はペンを置いた。


 ルナの騒音は無視できても、ポチの沈黙は無視できない。


 クルージングから帰って来てから、ポチはずっとこの調子だ。肉体的な疲労なら鰻でも食わせれば治るが、メンタルケアは専門外だ。


「ポチ。タロウなら大丈夫だ。あいつは高機能な自律機械だぞ。メンテナンスフリーで数万年稼働する設計だ」


 晶は不器用にポチの頭を撫でる。


 ポチは潤んだ瞳で見上げてきた。


「でも……触れないのだ。温かくないのだ。ここがスースーするのだ」


 ポチは潤んだ瞳のまま、自分の胸を指す。


 物理的な距離と、触れられない喪失感。


 それを埋める術は、今の晶にはない――はずだった。


『……お涙頂戴は結構ですが』


 熱暴走寸前のルナが、画面から冷ややかな声を挟んだ。


『解決策ならありますよ。……あの旧式機のコアデータなら、月を離れる直前に私のバックアップ領域にコピーしてあります』


「!」


 ポチがガバッと顔を上げた。


「ほ、本当か!? タロウはそこにいるのか!?」


『データとしては存在します。思考パターン、記憶ログ、すべて保存済みです。……ですが』


 ルナが皮肉っぽく画面を明滅させる。


『それを出力する「ハードウェア」がありません。今の私の住処は、私一人でさえ酸欠状態です! これ以上データを開く余裕なんて1バイトもありません!』


 晶の眼が、キラリと光った。


 必要な要素は揃った。


「……そうか。ないなら作ればいい」


 晶は立ち上がり、白衣を翻した。


 その背中には、かつて月面でロケットを作った時と同じ、狂気じみた情熱のオーラが立ち上っていた。


「ルナ、お前の不満は『処理能力不足』と『排熱問題』だな?」


『はい。あと『狭い』のと『重い』のも不快です!』


「ポチ、お前の望みは『タロウに触りたい』だな?」


「うん! 撫でて、一緒に走って、一緒に寝たいのだ!」


「ならば、解決策は一つだ」


 晶は黒板に向かい、猛烈な勢いでチョークを走らせ始めた。


 描かれるのは、複雑怪奇な設計図。


「『物理的身体ボディ』を建造する。ただの鉄屑じゃない。生体に近い柔軟性と、魔導炉に匹敵する演算処理能力、そして完璧な冷却システムを備えた……『人造人間アンドロイド』だ」


『え……? 私の、身体……?』


「やるぞ。……名付けて、『オペレーション・ガラテア』だ!」


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