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第109話:180秒の防衛戦(前編)

 晶の決意に満ちた言葉を受け、一行は魔力炉のある「中枢区画」を後にした。


 目指すは、この研究所の更に地下深くに存在する「第0階層」――通称『封印区画』だ。


 最深部へと続く専用エレベーターの中、重苦しい沈黙が流れていた。


 誰も口を開かない。いや、開けないのだ。


 世界の真実を知った衝撃と、これから立ち向かう敵への恐怖が、空気を鉛のように重くしていた。


「……アネキ」


 沈黙を破ったのはリナだった。


 剣の柄を握る手が、微かに白くなっている。


「なぁ、その『黒き獣』ってのは、具体的にどんな化け物なんだ? ドラゴンより強いのか?」


「強い、弱いという次元の話じゃない」


 晶はPDAのモニターを見つめたまま、淡々と答えた。


「奴の正体は『暴走したナノマシン』の集合体だ。……お前たちにも分かるように言えば、そうだな……」


 晶は少し考え、最適な言葉を選んだ。


「『食欲しかない無限増殖スライム』だと思えばいい」


「スライム?」


「ああ。だが、そんじょそこらの魔物とはわけが違う。奴らには知性も感情もない。あるのは『増殖しろ』というバグった命令だけだ」


 晶は忌々しげに吐き捨てた。


 科学文明が恐れた終末のシナリオ――『グレイ・グー』。


 自己増殖機能を持った極小機械が制御不能に陥り、あらゆる物質を分解・再構築して、自らのコピーを作り続ける現象。


 放っておけば、数日で地上の全てが黒い泥に置換され、惑星そのものが死滅する。


「奴らにとっては、壁も、床も、そして私もお前たちも……ただの『材料エサ』でしかない」


 その言葉に、全員が息を呑んだ。


 殺されるのではない。食われて、材料にされる。


 それは生物としての尊厳すら許されない、無機質な死の宣告だった。


 チン♪


 軽やかな到着音が、逆に不気味に響いた。


 エレベーターが停止し、扉が開く。


「……ッ!?」


 開いた扉の向こうに広がっていた光景に、ボルスが呻いた。


「なんだ、こりゃあ……」


 そこは、かつては白い壁と床で構成された通路だったはずだ。


 だが今は、視界の全てが「黒」に染まっていた。


 タールのような、あるいはヘドロのような黒い粘液が、床も壁も天井も覆い尽くしている。


 鼻をつくのは、金属が腐ったような刺激臭と、甘ったるい腐敗臭が混ざったような異臭。


「ひどい匂いなのだ……。鼻が曲がるのだ……」


 ポチが鼻を押さえて後ずさる。


「気をつけろ。……すでに来ているぞ」


 晶が警告を発した、その時だった。


 ボコッ……ボココッ……。


 床を覆う黒い泥が、沸騰したように泡立った。


 粘液が盛り上がり、形を成していく。


 あるものは狼のように。あるものは巨人のように。


 不定形の泥人形たちが、虚ろな穴のような「目」をこちらに向けていた。


 『ウゥゥ……ガァァァ……』


 声帯などないはずなのに、空気の摩擦音のような不気味な唸り声が響く。


「来るぞ! 構えろッ!」


 晶の叫びと共に、黒い軍勢が一斉に襲いかかってきた。


「やらせるかッ! はぁっ!」


 リナが疾風のごとく踏み込み、先頭の泥人形を斬りつけた。


 ミスリルの刃が閃き、敵の胴体が鮮やかに両断される。


 ズバッ!


「手応えがない……!?」


 リナが驚愕する。


 斬られた泥人形は、苦しむ素振りも見せず、液状化した断面を瞬時に再結合させた。


 傷一つ残っていない。


「斬っても元に戻りやがる! 物理攻撃が効かねぇよ!」


「なら、焼き尽くすまでです! 『火球(ファイア・ボール)』!」


 テオが杖を振り、巨大な炎の塊を放つ。


 ボウッ!


 直撃を受けた泥人形が、紅蓮の炎に包まれる。


「やったか!?」


 だが、炎が消えた後、そこにいたのは――。


 『ゴォォォ……!』


 以前よりも一回り巨大化した怪物だった。


「なっ……!? 大きくなった!?」


「魔法は使うな!」


 晶が叫ぶ。


「魔法はナノマシンへの命令であり、エネルギーだ! 奴らはそれを食って増殖するぞ!」


 物理無効。魔法吸収。


 ファンタジー世界の住人にとって、これほど相性の悪い敵はいなかった。


「くそっ、打つ手なしかよ!?」


「待て、魔法そのものが駄目なら……『アイテム』はどうだ!」


 ガンドが腰のポーチを探った。


「魔力そのものをぶつけるんじゃなく、物理的な現象を起こす『魔石』ならどうだ! 凍らせて動きを止めてやる!」


「なるほど! それなら効くかもしれん!」


「ポチ、ありったけの氷魔法石を投げろ!」


 ガンドの指示で、ポチがポケットから青く輝く結晶を取り出した。


 高純度の魔力が込められた、希少な氷魔法石だ。


「わかったのだ! カチカチになるのだー!」


 ポチが数個の石を泥人形の群れに投げつける。


 カッ!


 石が輝き、絶対零度の冷気が解き放たれようとした、その瞬間。


 ジュルッ。


 泥が鞭のように伸び、空中の魔法石を包み込んだ。


「え……?」


 輝きが、一瞬で消えた。


 氷が発生するどころか、冷気すら感じない。


 魔法石は泥の中で分解され、その膨大な魔力を吸い尽くされたのだ。


「う、嘘だろ!? 発動もしねぇのかよ!」


「駄目だ! 魔法石は『純度100%の魔力塊』だ! 奴らにとっては最高カロリーのご馳走だぞ!」


 晶の警告通り、魔法石を飲み込んだ泥人形たちが、ボコボコと沸騰するように膨れ上がり、さらに分裂した。


 一匹が二匹に。二匹が四匹に。


 ネズミ算式に増えていく。


「わわっ!? 増えたのだ!? 敵に塩を送っちゃったのだー!」


「塩どころか最高級ステーキを送ったようなもんだ!」


 絶望的な状況に、一行がジリジリと後退する。


 物理も、魔法も、アイテムも通じない。


 まさに無敵の捕食者。


「力押しも、魔法も通じない。……なら、残る手段は一つだ」


 晶は視線を切り替えた。


 その視線が、通路の壁際にある埋め込み式の制御端末コンソールを捉える。


「奴らは暴走しているとはいえ、元は機械プログラムだ。……なら、書き換えてやる」


 晶は端末へとダッシュした。


 泥人形たちが反応し、晶へ殺到する。


「させねぇよ!」


 ボルスが魔導銃の銃床で泥人形を殴り飛ばす。


 倒すことはできないが、吹き飛ばすことはできる。


「アキラ様、何を!?」


「ここからシステムに割り込んで、奴らの基本命令コードを書き換える! 自壊するための『停止プログラム』、ワクチンを作る!」


 晶はキーボードを叩き始めた。


 恐ろしい速度で文字列がモニターを流れていく。


「3分でケリをつける! それまで私に指一本触れさせるな! 死ぬ気で私を守れ!」


「「「了解!!」」」


 晶の背中を守るように、仲間たちが扇状に展開する。




 ……こうして、短くて長い『180秒の防衛戦』の幕が切って落とされた。

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