第103話:さよなら、タロウ
そして、翌朝。
人工太陽の光が窓から差し込むと同時に、晶たち一行は活動を開始した。
「出発だ。……今日はこの居住区画を抜け、最深部へと続く『第3階層:工場区画』へ向かう」
晶が告げると、全員が引き締まった表情で頷く。
ここまでの快適な旅は終わりだ。ここから先は、危険な生産ラインと防衛システムが待ち受けるであろうエリアになる。
「行くぞ」
支度を整え、部屋を出る。
ポチが振り返ると、タロウも尻尾を振って着いてこようとした。
「行くのだタロウ! 一緒に冒険なのだ!」
ポチは嬉しそうに手招きする。
タロウも『ワン!』と答え、軽快に足を踏み出す。
一行は公園を抜け、居住区画の端にある巨大な隔壁ゲートへと向かった。
このゲートの向こうが、工場エリアだ。
「開けるぞ」
晶が操作パネルにIDをかざす。
プシューッ……と重い音を立てて、分厚い扉が開き始めた。
向こう側から、油と鉄錆の混じった、淀んだ空気が流れ込んでくる。
「うっ……。空気が変わりましたね」
「清潔な街ともお別れか」
セシリアとボルスが顔をしかめる中、ポチがゲートへ向かう。
「行くのだタロウ! こっちなのだ!」
ポチがゲートをくぐろうとした。
だが。
ピタッ。
ゲートの手前、床に引かれた黄色いラインのところで、タロウの動きが止まった。
「……? どうしたのだ? おいでなのだ」
ポチが呼ぶが、タロウは動かない。
前足を踏み出そうとしては、見えない壁に阻まれたように引っ込めてしまう。
『ピピッ……警告。エリア離脱不可。』
タロウから無機質な音声が流れる。
『ワイヤレス給電エリアを離脱します。これ以上進むと、全機能が停止します』
「え……?」
ポチが立ち止まる。
晶がPDAを確認し、静かに告げた。
「……連れて行けないぞ、ポチ」
「どういうことなのだ?」
「こいつの動力源だ。タロウは、この居住区画の床下に埋め込まれた送電システムから、無線で電気をもらって動いている」
晶は、ゲートの向こうの暗い通路を指差した。
「あっちの工場エリアには、そのシステムがない。要するに、このラインを一歩でも越えれば、タロウは電池切れになる。……二度と動かなくなるぞ」
「そ、そんな……」
ポチの顔が歪む。
「じゃあ、一緒に行けないのだ……?」
「ああ。タロウは、この街でしか生きられない」
残酷な現実だった。
ポチはタロウに駆け寄り、その冷たく硬い頭を抱きしめた。
「嫌なのだ……。せっかく友達になれたのに……」
タロウは状況が理解できているのかいないのか、ポチの頬をペロリと舐めるような動作をした。
『ワン』と小さく鳴く。
その電子音が、ポチの胸を締め付けた。
その鳴き声がトリガーとなり、ポチの脳裏に、昨日の光景が鮮やかに蘇る。
ホログラムのボールを追いかけて、二人で芝生を転げ回ったこと。
タロウのぎこちない動きに、みんなで笑い合ったこと。
そして昨日の夜、ベッドの中で感じた、硬いけれど確かな温もり。
――タロウ、おやすみなのだ。
――ワン(オヤスミ)。
たった一晩。ほんの数時間の友情。
わかっていても感情が納得できない。
ポチの瞳はどんどん潤んでいく。
『……クゥーン……』
タロウの内蔵スピーカーから漏れたのは、サンプリングされた鳴き声ではなかった。
回路のノイズか、あるいは演算エラーか。
まるで、行き場のない感情がきしむような、切ない電子音だった。
あるいは、タロウにとっても、この半日は輝いていたのかもしれない。5万年の孤独を埋めるには十分で、そして別れを惜しむには十分すぎる時間だった……のかもしれない。
不意に、タロウが小さく震えた。
赤いカメラアイが、パチパチと瞬きをするように明滅する。
ただの機械。プログラムの塊。
だがその姿は、抱きしめてくるポチの体温を、ハードディスクの最も深い領域へ焼き付けようとしている――そうとしか見えなかった。
「ポチ。……時間はあまりない」
晶が心を鬼にして促す。
ポチは震える体を押さえ、涙を拭って立ち上がった。
泣いていてはいけない。
弟分の前で、かっこ悪い姿は見せられないのだ。
ポチは、タロウの真っ赤な瞳を真っ直ぐに見つめた。
「……タロウ」
ポチは、いつになく真剣な顔つきで言った。
「ここでお留守番なのだ。ボクたちが帰ってくるまで、この家を守るのだ」
それは、別れの言葉ではなく、ミッションの付与だった。
主を待ち続ける彼に、新たな「待つ理由」を与えたのだ。
タロウの耳がピクリと動く。
そして、理解したように背筋を伸ばし、キリッとしたポーズをとった。
『ワン!』
「……いい子なのだ」
ポチはもう一度だけタロウの頭を撫でると、くるりと背を向けた。
「行くのだ。ボクは泣かないのだ」
ポチは涙を拭ってゲートを走り抜けた。
晶たちもそれに続く。
ズズズズ……ンッ。
背後で重い隔壁が閉まっていく。
隙間から、最後までこちらを見送る、小さな白い犬の姿が見えた。
タロウは、天井の見えない空を見上げていた。
そして。
『ワオオオオオオオォォォォォ…………ッ!!』
長く、高く。
電子的なサイレンにも似た、けれど紛れもない「遠吠え」が響き渡った。
それは別れを惜しむ哭き声であり、同時に戦場へ赴く友への、最大のエールだった。
ポチの犬耳がピクリと反応する。
けれど、彼女は振り返らなかった。
ドォォン……。
扉が完全に閉ざされ、声は途絶えた。
「……グスッ、……ひっ、……うぅ……」
静寂が戻った薄暗い通路に、押し殺した嗚咽が響く。
ポチはその場に立ち尽くし、小さな背中を小刻みに震わせていた。
もう、タロウには見えない。我慢していたものが、決壊したのだ。
誰も声をかけない。
タマもリナも、ただ黙って、その涙が引くのを待った。
淀んだ油の臭いが、鼻をつく。
それは、優しかった居住区画とは違う、冷徹な現実の臭いだった。
そして、どれくらいの時間が経っただろう。
「……スーッ、……ハァー……」
やがて、ポチは大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
そして。
パンッ、パンッ!
両手で自分の頬を、強く叩いた。
乾いた音が通路に響く。
「……もう、大丈夫なのだ」
ポチは乱暴に袖で目元を拭うと、キッと顔を上げ、充血した目で前を向いた。
その顔に、さっきまでの弱さはない。
弟分に恥じない、立派な姉貴分の顔だった。
「行くのだ。……タロウが守ってる後ろは、絶対に振り返らないのだ」
「……ああ、そうだな」
晶は短く答え、一回り大きく見えるようになった小さな背中に頷いた。
……感傷はここまでだ!
居住区画の快適な空気は遮断され、周囲は配管と鉄骨がむき出しになった、薄暗い空間へと変わった。
「……ここから先は『工場区画』だ」
晶は、覚悟を決めたポチの横顔を一瞥してから、前を見据えた。
「遊びは終わりだ。総員、気を引き締めろ」
「「「了解!」」」
一行は、無機質な機械音が響くダンジョンの深層へと足を踏み入れた。




