幸せと不安
いままでと違い、みんなにかまってもらえることがなによりうれしい。こんなことを言ってはなんだけど、チヤホヤしてもらっていることも照れ臭くもありうれしくもある。
甘やかされ、おだてられたりやさしくされて有頂天までとはいかないまでも、わたし自身調子にのってしまっているのかもしれない。
しかし、それがそのまま不安に直結することもたしか。
みんなの態度がいつ豹変するかもしれない。いままでとは正反対の態度になるかもしれない。
ヴィクターだって、いつわたしに愛想を尽かすかもしれない。彼の「真実の声」を感じることが出来なくなるかもしれない。つまり、人前で彼が言っていることが彼の「真実の声」になるかもしれない。
それらを考えると、ゾッとしてしまう。怖くて怖くて仕方がない。不安で不安でたまらなくなる。
そんな不安や怖れの中、ふと思い出すことがある。
たとえみんなに愛想を尽かされたり嫌われたとしても、「以前と同じような状況にもどるだけのこと」、だということを。
ということは、以前よりも悪くはならないということ。以前以上に寂しかったりつらかったりということにはならないということ。
だったら、なにも怖れたり不安になったりする必要はない。
そうふっきろうとしつつも、やはり心のどこかではそれらが居座っている。
そして、このことも思い出す。
自由ってなんなの、と。
元夫に離縁され、自由になった。
いまはどうなのかしら?
立場的には、自由に近いといっていいのかしら?
国王であるヴィクターの妻であるはずが、当のヴィクターに拒否されている。表向きは、だけど。ということは、いまわたしはなにもない状態のはず。
しかし、実際のところはそうではない。
他国の軍の駐屯地の中で、大勢の男性の目にさらされ、ある意味注目されている。ヴィクターだって見ていないふりをしつつもこっそり見張っている。どこかに行くときでも、かならずだれかがついてくる。もちろんそれは、わたしを監視しているわけではない。みんなにしてみれば、国王であるヴィクターがなにを言おうがわたしは彼の婚約者。その国王の婚約者の身の安全を護ることは、彼らにすれば当たり前のことらしい。だから駐屯地内でどこかに行くのでさえ、親衛隊の隊員がついてくる。もっとも、それも最初は煩わしかった。しかし、いまでは慣れてきている。
そして、そういう物理的にというだけでなく精神的にも「カゴの中の小鳥」状態であることはいうまでもない。
ということは、実際のところは自由ではないことになる。
が、気持ち的には以前よりよほど解放感があるし、自由気ままに考えたり行動している。
それらを考えると、いろいろ微妙である。
そんなある日、パーシーとチャーリーに「陛下の執務室に来て欲しい」と言われた。
ちょうどマドレーヌを焼き終わったタイミングである。
わたしは、「なんでも自由にしていい」と言われている。だから、料理長のシドニーに料理やスイーツの作り方を習い、チャレンジしている。それ以外には、庭で花や野菜の手入れをしたり、厩舎に行って馬を見せてもらったり、図書室で本を読みまくったりと自由気ままにさせてもらっている。
それはともかく、パーシーとチャーリーが厨房に呼びに来たとき、マドレーヌが焼き上がったところだった。




